kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

日経新聞の読者は、朝日や毎日の読者、それどころか読売や産経の読者と比較しても知的水準がずっと低いのではないか?

私は常々、日本経済新聞の読者は、朝日や毎日の読者、それどころか読売や産経の読者と比較しても知的水準がずっと低いのではないかと疑っている。たとえば昨日(6/16)、下記の書き出しで始まる日経の記事を読んだのだが、怒りが収まらなかった。

「安倍1強」浮かぶリスク 「共謀罪」法成立、与党に内閣改造論 :日本経済新聞

「安倍1強」浮かぶリスク 「共謀罪」法成立、与党に内閣改造

 犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の構成要件を改め「テロ等準備罪」を新設する改正組織犯罪処罰法が15日、徹夜国会の末に成立した。委員会採決を省く奇策を講じた背景には、自分たちが正しいとの無謬(むびゅう)性を強調したため、かえって国民に疑念を抱かせてしまった戦術の誤算があった。「1強」を誇ってきた安倍政権の強さゆえのリスクが浮かぶ。(関連記事総合2、政治、「共謀罪」特集面、社会1面に)

 「『怪文書

日本経済新聞 2017年6月16日)


以下は有料記事なので読めないが、紙面を読んだ記憶では、安倍政権はずっと自らの無謬性を強調する戦術をとってきて、今まではそれが国民に力強さを感じさせていたが、加計学園問題における内閣官房長官菅義偉の「怪文書」発言(要するに、誰が考えても「政権が無謬だ」とは思えない強弁。記事はそういう露骨な書き方はしていなかったが)などの対応によって、「無謬性」を疑われるようになってしまった、などという意味のことが書かれていた。

確かに、安倍晋三は安保法案の審議の頃だったかそれよりさらに前だったかは忘れたが、「私は総理大臣なんです。だから私の言うことは正しいんです」などと国会で抜かしていた。私はその映像をニュースで知って激怒したが、のちにこの安倍発言を「立憲主義を無視した人治主義」との観点から批判できることを学んだ。しかし、安倍がこの発言をした当時、日経がこの安倍発言を批判したとは寡聞にして知らない。

日経は立憲主義を無視して自らを「無謬」と僭称する安倍晋三を黙認したのである。それを日経の読者はなんとも思わなかった。

そんな読者を持つそんな新聞だから、今になって、これまでは無謬性を強調する安倍政権の戦術が力強さを感じさせていたが、加計問題をめぐる菅の「怪文書」発言などが政権の無謬性に疑念を抱かせてしまった、などと「政権批判」に見せかけた厚顔無恥な文章を書けるのである。「安倍政権の無謬性」とやらは、「絶対的権力は絶対に腐敗する」という観点からも批判できるが、この日経のヨタ記事はそれ以前の論外な低レベルの記事だとしか言いようがない。

この記事を書いた記者の頭には、権力のチェック機能という、ジャーナリストであれば片時も忘れてはならない理念など、欠片もないに違いない。

また、日経の読者たちも、こんなふざけた記事を読んでおかしいとも何とも思えない人たちばかりなのであろう。つまり、自分の頭で物事を考える能力を持たず、そのくせ「日経新聞を読んでいる私は偉い」とでも思い上がっているのではないか。

だから私は、日経の読者は、朝日や毎日の読者、それどころか読売や産経の読者と比較しても知的水準がずっと低いのではないかと疑うのである。