kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「党利党略」の誹りを恐れず堂々と選挙制度を論じよう/坂野潤治『帝国と立憲』を読んで(下)

日中戦争を阻止するには「デモクラシー勢力」の政権奪取が必要/坂野潤治『帝国と立憲』を読んで(上) - kojitakenの日記(2018年1月4日)の続き。

坂野潤治の『帝国と立憲』を読んで特に興味深かった点の一つが、吉野作造が唱えた普通選挙論の論法だ。



政友会が1900年の立党以来初めて「完全野党」の立場に立たされたのがジーメンス事件*1のあとを受けた第二次大隈内閣の発足だという。

著者はこの第二次大隈内閣について、「『内に立憲、外に帝国』などという恥ずかしい標語」*2と批判する方向性を目指した例外的な政権だったとしてネガティブな評価を下しているが、制限選挙制で有権者が150万人しかおらず、その大半が政友会を支持する農村地主だった当時の選挙制度にあっては、「非政友三派」が恒常的に政友会に対抗することは難しかった*3

当時の政治状況についての吉野の論評がまず面白い。吉野は、西洋の政治においては「政党は党勢を民間に張ることによって始めて政権を掌握することが出来る」*4のに対し、「日本の政党は従来から、政権を掌握することによって初めてその党勢の拡大も出来るので、この点は西欧先進国の政党とは正反対である」*5と指摘する。さらに、「日本においては政権に離れるということは、直ちに党勢の衰微を意味する。[だから]たとえ馬鹿といわれ阿呆と罵られても、政権には離れまいとする」*6というのだが、この最後の引用文など、まんま2009年以降の民主党と2012年に政権を奪回して以降の安倍政権に当てはまる。また、希望の党の設立時に「排除」されて初めて、立憲民主党の「ボトムアップ」、すなわち「党勢を民間に張る」ことによる政権の掌握を目指す動きが出てきたことなど、日本の政治は西欧先進国に比べて「何周遅れやねん、いったい」とぼやきたくもなる。しかも、日本ではいまだに某老政治家の「剛腕」によって政権を再奪還しようなどという「見果てぬ夢」を抱く野党支持者ないし反自公政権の人士が多くて、二大夕刊紙の一つがそれを代弁し続け、「リベラル」系新聞社の系列出版社二社も某老政治家を持ち上げ続けている。今現在も、某老政治家のインタビューだの「新年会」だのが話題になるお寒い状況が続いているていたらくだ。ようやく、「ボトムアップで新しい潮流をつくりあげないと、もはや1993年の細川連立政権発足当時のような数合わせでは前進しない。某老政治家にはこれはわからないはず」*7という総選挙への論評が政治学者によって出てきたのがようやく昨年、2017年だったのだ。

この状況を著者もぼやいている。以下引用する。

 欧米が良くて日本は駄目という議論に、筆者は長い間反発して、戦前日本においてもデモクラシーが発達していたことを強調してきました。しかし、近年の日本の政治を見ていると、あるいは吉野作造の言う通りなのかもしれないと思えてきます。(本書165頁)


ところで、その吉野作造普通選挙論において、著者が注目している箇所が面白い。以下再び本書から引用する。

 吉野の第二点*8普通選挙制の導入です。ここでは吉野が、それをデモクラシーの原理から唱えるのではなく、「非政友三派」の党勢拡張の必要から説いている点でしょう。「非政友三派」が結束を固めるだけでは政友会と覇を競う政党にはなれない。党勢の拡張が必要である。しかもこの党勢は半ば恒常的なものでなければならない。ひと言でいえば、「非政友三派」独自の「地盤」を造りあげなければ、政友会と恒常的に覇を競う勢力にはなれない、と吉野は主張したのです。

 当時の有権者数は、わずか150万人前後であり、その過半は政友会の「地盤」となっていました。その政友会に対抗しようとする新政党(非政友三派)は、この約150万人の外に独自の地盤を作らなければなりません。普通選挙制を導入すれば有権者総数は1200万を超えます。そこに新党の地盤を築き上げるべきだというのが、吉野のこの時(1914年5月)の政党論だったのです。

(中略)過半数政党に対抗するには、それなりの「地盤」が必要であり、一時期の人気だけでは駄目なのです。「地盤」という視点から普通選挙制の必要を説く吉野のこの論文には、今日の私たちにも共感を呼ぶものがあります。今日の私たちには選挙権の拡大という手は残されていませんが、毎回の低投票率を見れば、野党が築くべき「地盤」がどこにあるかは、言うまでもないでしょう。(本書166-168頁)


本書には2017年5月の年月を記した「あとがき」が付されているが、その後にあった選挙を振り返ると、7月の東京都議会選で「一時期の人気」を誇った「都民ファーストの会」が圧勝したものの、同じ党首が率いた「希望の党」は、10月の衆議院総選挙に惨敗した。「一時期の人気だけでは駄目」を地で行った形だ。

著者は、野党は投票所に足を運ばない有権者にアピールする努力をせよと言いたいのだろうと思うが、「1993年の細川連立政権発足当時のような数合わせはもはや通用しない」と「野党共闘」の軍師ともいうべき政治学者が総括したことからもう一ついえるのは、選挙制度を改変する必要があるということだ(おそらく読者のかなりの部分は、私がこう言い出すに違いないと想像していただろう)。

そして、選挙制度の改変、具体的には党派別当選者の総数を全国一区の比例代表制で決める制度(個々の当選者を決めるに際して小選挙区制の要素を盛り込んでもかまわない)を私は想定しているのだが、そういう選挙制度に変えるべきだと訴える際には、それを訴える政党なり政治勢力なり言論人なりは、100年前の吉野作造を見習って、大いに「党利党略」の観点を正面に打ち出すべきだ。そこまでの大胆不敵さが必要だ。それが、この本を読んだ私にとって最大の収穫の一つだった。

なぜこんなことを書くかといえば、昨年下記の記事を書いた時にいただいたコメントがずっと気になっていたからだ。


気になったコメントは下記。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20171215/1513293636#c1513427061

id:suterakuso 2017/12/16 21:24

記事への批判ではなくて、これを付言していないと、立憲民主党を支持しているからそんなことを主張するのだろうが、このご都合主義者め、みたいな難癖がつけられるかも、ということをいちおう言いたいと思います。

それは、「小さくてまとまりのよい政党」に適合的な選挙制度を提案せよ、というのは、つまりは、より国民の多様な意見を反映した代表者が選出され、政権運営がなされる選挙制度を提案せよ、ということだということです。つまり、2009年に政権交代がなされたのは小選挙区制があったおかげだ、だから、小選挙区は善だ、現実的に自民党政権を打倒できる選挙制度こそ善だ、という主張とは、まったく性質が異なるということです。幸い、今のところご都合主義な主張をするなというレスはないようですが、また、もちろんkojitakenさんが付言するまでもなくそのように考えていることはこれまでの言葉から明白ですが、やはり、いちおう付言しておくべきではないかと思いました。


「記事への批判ではなくて」という断り書きのあるコメントに突っかかるのも何ですが(そもそも私は立憲民主党に対して一定の期待は持っているものの支持政党とまではいえず、総選挙でも投票しませんでした)、そんなことは気にせず、堂々と党利党略、私利私略に基づいて議論しても良いんじゃないかな、とコメントをいただいた時に思いました。

毎回そんなイチャモンを気にして建前論を書いていても、書く方も読む方も面白くないし、議論をする時の敷居が高くなるだけではないか。そうずっと思っていたところに吉野作造普通選挙論を紹介した坂野潤治の文章を読んで、「わが意を得たり」と思った次第です。

以後ですます調から常体に戻すが、「穏健な多党制」を目指す政党なり政治勢力が絶対に起こさなければならないことが、選挙制度改変の議論だと私は固く信じる。

特に立憲民主党には大きな矛盾というか惰性力がある。それは、同党のルーツが民主党にあり、その民主党小選挙区制の本家本元だということだ。今、立憲民主党の議員たちに選挙制度に関するアンケートをとって質問すると、党代表の枝野幸男を含む大部分の議員は、現行の小選挙区比例代表並立制のままで良いと答えるのではないかと私は考えている。

また、「野党共闘」、特に「市民連合」にも大きな問題がある。それは、一つには市民連合の中心にいる政治学者の山口二郎が、時に自らが過去に推進した小選挙区制を間違いだったと振り返ることはあっても、まともな総括をしていないのではないかということだ。中心となる学者がそうだから、市民連合全体として選挙制度の議論が全然出てこないのではないかと強く疑われる。

しかも、「野党共闘」には、共産党小沢一郎とが手を結んだという性格が強い。小沢が代表を務める自由党森裕子が唱える小選挙区制擁護論は、昨年11月にも批判したばかりだ。


小沢が今も「小選挙区原理主義者」のままであり続けていることはいうまでもなかろう。

このように、「野党共闘」には、中心となる学者にかつての「政治改革」推進者がいて、かつその総括ができていないこと、及び、共闘の重要な部分をなす政党・政治家に「小選挙区原理主義」勢力を抱えていることによって、なかなか選挙制度の議論をしづらい「惰性力」が働いているのである。

上記に見たように、立憲民主党自由党市民連合がそれぞれ大きな問題点を抱えていて、選挙制度の議論に踏み出すことさえできずにいるのが現状だ。

本当は、絶対に小選挙区制に強く反対しているはずの共産党が、率先して選挙制度の議論を仕掛けるくらいでなければならないと思うのだが、かつて社民党が堕ちていった時を思わせる小沢とべったりの今の志位執行部にはそれは期待しにくいのではないか。

ならば、政党以外の人たちが議論を起こすべきではないかと強く思う。そう、共産党立憲民主党や、ましてや自由党には大して、あるいは全く期待できない以上、政党外の人間が強く訴えて議論を盛り上げていくほかないのではないか。

選挙制度の再改変は、今年、2018年以降の政治において最大の課題の一つであってしかるべきだと信じる今日この頃だ。

2回か3回に分けて、と考えていた「坂野潤治『帝国と立憲』を読んで」のシリーズは、上下編2回にして、今回で終わりにします(本は早ければ明日にも図書館に返却する予定)。

昨日の記事で新年の挨拶を忘れていたことを、記事を公開した後に思い出しました。皆様、今年もよろしくお願いします。

*1:一般に「シーメンス事件」と呼ばれ、坂野潤治もこの表記を用いているが、どう考えてもドイツ語の固有名詞 "Siemens" のカタカナ表記は「ジーメンス」であるべきだろう。

*2:本書7頁

*3:本書164頁

*4:本書165頁=吉野作造『現代の政治』62-63頁からの引用。

*5:同前

*6:同前

*7:https://twitter.com/sangituyama/status/946603293567942656を一部書き換えた。

*8:「第一点」は「非政友三派」の結束の強化=本書166頁