kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

衣笠祥雄死去

プロ野球広島東洋カープで1960〜80年代にかけて活躍した名プレーヤー・衣笠祥雄氏の訃報に接した。

プロ野球に興味を持ってテレビ中継(ご多分に漏れず読売の試合。当時は関西でもVHFのナイター中継は読売戦ばかりだった)を見るようになった頃、セ・リーグ各球団の四番打者の中で特に異彩を放っていたのが衣笠の風貌と豪快なフルスイングだった。私は勝手に衣笠に「野獣」というあだ名をつけていた*1。下記リンク先をご覧いただければわかる通り、当時は衣笠が4番で山本浩司(のち浩二に改名)は5番だった。私は衣笠の打撃に強く魅せられた(山本浩司は特に印象に残らなかった)。


上記リンク先の試合は後楽園球場の対読売1回戦で、スコアを見ると衣笠は4打数4安打を放ってカープ快勝の立役者になったが、実際に私が初めて衣笠をテレビで見たのがこの試合だったかどうかは覚えていない。

衣笠祥雄の訃報は、「きまぐれな日々」にいただいた鍵コメで知った。4本の記事のリンクのURLとタイトルを紹介していただいた。鍵コメを開いてまず目に入ったのは下記。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180424-00000127-spnannex-base
江夏氏に聞いた衣笠氏の凄さ 遠征先でお酒の席から決まって抜け出し…


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180424-00000053-asahi-spo
達川氏「キヌさんが一番野球を愛していた」 衣笠氏死去


最初、死んだのは江夏豊か衣笠かと一瞬思い、すぐ衣笠かと了解した。何歳くらいかなあ、引退してから30年だから70歳くらいか、1月に70歳で死んだ星野仙一と同じくらいかと思ったらやはりそうで、71歳だった。病名は大腸癌で、死の4日前にTBSで放送されたDeNA対読売戦(横浜スタジアム)の解説を務めていたそうだ。最近癌で調子の悪い元野球選手として江本孟紀大島康徳の話は聞いていたが衣笠祥雄の話は知らなかった。しかし、上記2件目のリンクにある達川光男によると、衣笠と親しい江夏は知っていたようだ。以下引用する。

達川氏「キヌさんが一番野球を愛していた」 衣笠氏死去
4/24(火) 15:42配信

 衣笠祥雄さんの訃報(ふほう)に接したプロ野球広島の後輩で、現役時代一緒にプレーしたソフトバンク達川光男ヘッドコーチは「体調が悪いというのは聞いていた」と、別れを惜しみながら現役時代の思い出を語った。

 「最後に会ったのは、去年の横浜であった交流戦の時。電話は時々くれていた。江夏豊さんと非常に仲が良くて、『キヌはちょっと状態が悪いぞ』と言われていた」

■同じキャッチャー出身

 「同じキャッチャー出身で、捕手心理とか教えてくれた。落ち込んでいたら、『そういうポジションだから我慢せえよ』と声をかけてくれた。現役時代はキャッチボールの相手をさせていただいて。今でも鮮明に覚えている。マウンドでもよく怒られた。あんまりカッカするなと。投げていた北別府学の何が良いんだ、コントロールだよと。来るボールで抑えろと言われて、状況に応じて配球することを教えてもらった。僕を怒りながら、ピッチャーを鼓舞していた。レギュラーをつかんだ時に、キヌさんが、『タツ上手になったな』と言ってくれて、それから自信がついた」

 「(現役時代は)キャンプ中も、すし屋によく連れて行ってもらった。(衣笠さんは)生ものを全然食べないのに、すし屋が好き。カウンターで、まず頼むのは、玉(たまご)。すし屋なのにステーキも出てきて、自分も2、3年目で不思議に思っていた」

■けが「黙っていたらわからん」

 「金本知憲も名言を言ったが、キヌさんも痛いとかかゆいと言うからけがになる、黙っていたらわからんと言っていた。試合に出るのが当たり前だと。連続試合出場の(大リーグ記録を超えた)時は今でも覚えている。(元大リーグ・オリオールズの)カル・リプケンが尊敬されるだけあって、ずっと毎日出続けた体力はすごい」

 「体格は僕と変わらないが、ホームランを打つのがすごく好きな方だった。常にフルスイングだった。とにかく野球が好きだった。小説を時々読んでいたくらいで、あとは野球のことしか考えていなかった。今まで数多くの野球好きを見てきたけど、キヌさんがナンバー1。一番野球を愛していた」

朝日新聞デジタル


連続試合出場の記録に関しては、達川や多くのカープファンの方々には申し訳ないけれども、私にとっては衣笠という魅力にあふれた野球人の全体像から見てほんの一部でしかなく、そればかりが言及されることを好まない。むしろあの記録を作った年(1987年)の衣笠は限界が明らかで(事実、この年限りで衣笠は引退した)、カープが本気で優勝を狙うのであれば、試合に出さない方が良い状態の日が多かった。以前玉木正之も書いていたかと記憶するが、あの年のカープは衣笠の記録達成とチームのリーグ優勝を引き替えにしたようなものだった。あの年、1987年のリーグ優勝は読売だったし、2位の中日(星野仙一の監督初年度)は十何年かぶりに広島に勝ち越し、それを翌年のリーグ優勝につなげた。この1987年を境に、広島と中日のカモと苦手の関係は逆転し、それはほんの数年前まで続いていたのだ*2。衣笠の記録達成のためにチームが払った代償はあまりにも大きかったと思わずにはいられない。

また、引退直後に中曽根康弘から国民栄誉賞を授与されたり、朝日新聞の「嘱託」になるなどして、聖人君子に祭り上げられて「ありがたい説教」を宣うことを半ば強要された(としか思えなかった)衣笠に対して私は、あんな行き方を強いられて衣笠は窮屈ではなかったろうか、とよく思ったものだ。ただ、衣笠のプロ野球解説はあまり当たらなかったし、仮に監督なりコーチなりになっていたとしても記録を残せたとはあまり思えないので、その道を選ばなかったのは賢明だったかもしれない。

衣笠の魅力はそんなところにはない。野性味溢れるプレーと、1983〜85年頃に見せた円熟の技が素晴らしかった。特に印象に残っているのは打点王に輝き、チームを日本一に導いた1984年だった。たとえば下記の中日との首位攻防戦を、私はNHKテレビの生中継で見ていたが、序盤に高橋慶彦が2本の本塁打を放ったり、8回裏に山本浩二が2ランを放ったりして奪ったリードをその都度中日が追いつく粘りを見せた*3。結局中日を最後に突き放したのは牛島和彦から打った衣笠のサヨナラヒットであって、これを見て私は、ああ、今年のカープの主役は高橋慶彦でも山本浩二でもなく衣笠祥雄だったんだな、と思った。広島と中日との優勝争いにケリをつけたのはこの試合だった*4


同じ1984年の日本シリーズ第4戦(西宮球場)で衣笠が阪急のエース・山田久志から打ったホームランも印象深い。但しこの試合ではヒーローの座は山本浩二に持って行かれた*5
http://npb.jp/bis/scores/nipponseries/boxscore1984_4.html

私にとって衣笠は、初めて見た頃の野獣の荒々しさと、この1984年とその前後の83年、85年の円熟の技が印象に残る選手だった。連続試合出場記録の衣笠、国民栄誉賞の衣笠、朝日新聞社嘱託の衣笠には特に魅力はなかった。あくまで素晴らしいプレーヤーとしての衣笠祥雄に、私は称賛の言葉を惜しまないものだ。

ところで、「きまぐれな日々」には衣笠の訃報についての鍵コメをもう1件いただいている。こちらは心憎いことに、山本浩二のコメントはリンクとタイトルだけで、江夏豊のコメントは引用文つきだ。それが山本浩二には特に思い入れはないが江夏豊には強い思い入れがある私の琴線に触れたのだった。またそれに続く、やはり引用文つきの久保田龍雄氏の記事も印象的だ。以下鍵コメをそのまま引用する。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180424-00000123-spnannex-baseスポーツニッポン
盟友・山本浩二氏「キヌがいたから私も数字を残せた」かける言葉は「ありがとう」


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180424-00000141-spnannex-baseスポーツニッポン

江夏豊氏 盟友・衣笠氏悼む「そのうちオレもそっちに…」体調心配し、20日に電話で話したばかり

松山・坊ちゃんスタジアムでのヤクルト―阪神戦のテレビ解説のため、東京から空路訪れた松山市内で「朝、(衣笠氏の)奥さんからの電話で知った。いいヤツだった。青春時代をともに過ごした友人だった」と話した。

 同戦が降雨中止となると、「通夜に出る」と予定を変更して東京に折り返した。午後5時、松山空港に姿を見せた江夏氏は「今日は忙しい」と言った。

 「サチは今は独りで寂しいだろう。まあ、でも、今だけだよ。そのうちオレもそっちに行く。その時にまた野球談義ができる。ちょっとだけ待っていてほしい」

 衣笠氏は今月19日までテレビ解説(DeNA―巨人戦)の仕事をしていた。中継放送を観ていたという江夏氏は翌20日、電話をかけた。

 「あまりに声が出ていなかったので心配になって、“大丈夫か。養生しろよ”と話したんだ。その時は元気そうな声だったけどな」

 江夏氏は「思い出は尽きない」と話す。江夏氏が阪神、南海(現ソフトバンク)を経て1978(昭和53)年、広島入り。衣笠氏と同僚となった。

 79年にはリーグ優勝を果たした。この年、5月28日の中日戦(岡山県営)で衣笠氏が先発メンバーから外れ、連続フルイニング出場記録が途切れた。試合後、江夏氏は衣笠氏といっしょだった。

 「あの晩、サチは荒れて、酔っぱらっていた」と聞いたことがある。衣笠氏から「ピッチャーはええよな。休みがあるから」と言われた江夏氏は「これからは全試合ベンチに入ってやろうじゃないか」と言い返した。以後、リリーフエースだった江夏氏は毎試合ベンチ入りし、83年まで続けた。「サチが言うなら、やってやろうという気持ちだった」と話していた。

 この年、近鉄との日本シリーズ最終第7戦では9回裏無死満塁のピンチをしのいで日本一に輝いた。この投球を作家・山際淳司氏が『江夏の21球』として描写。ピンチにあって、ブルペンで投球練習の準備を始めたとき、自身を信用していないのかと興奮した江夏氏を、衣笠氏が「辞めるときはオレもいっしょだ」と言って、落ち着かせた逸話が描かれている。


https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180424-00000065-sasahi-baseAERA dot.)

急逝・衣笠祥雄氏、果敢に走塁を試みた「もうひとつの記録」

京都・平安高校時代に強肩強打の捕手として2度の甲子園出場をはたした衣笠氏は1965年、当時の広島としては破格の契約金1000万円で入団した。早速外車・フォードを買って猛スピードで乗り回したが、民家の塀に激突した挙句、球団に免許を取り上げられてしまった。以来、心を入れ替えて野球に専念し、1年目の1965年5月16日の中日戦(中日)で早くも1軍デビューを果たす。
 
 そして、「将来の正捕手」と期待された衣笠氏が、内野手にコンバートされるきっかけとなる運命的な事件が起きたのは、同年9月5日、巨人戦のダブルヘッダー第1試合(広島)だった。

 この日、衣笠氏は正捕手・田中尊の代打として途中出場し、マスクをかぶっていた。

 巨人が3点をリードして迎えた4回2死一塁、投手の城之内邦雄が空振り三振に倒れた。だが、ショートバウンドで捕球した衣笠氏は、打者にタッチしなければいけないところを、スリーアウトチェンジと勘違い。ボールをそのまま城之内にトスすると、さっさとベンチに引き揚げてしまった。

 城之内は当然のようにボールをヒョイと避けると、一塁に向かってスタコラサッサ。振り逃げセーフとなった。ベンチの指示で衣笠氏が気づいたときには、後の祭り……。失点につながらなかったのが、不幸中の幸いだったが、試合は2対7で敗れた。

 その後、衣笠氏は10月のシーズン終了まで4試合マスクをかぶったが、翌年から内野手にコンバートされた。

 しかし、打撃に専念できるファーストへの転向は吉と出た。入団4年目の68年に21本塁打を記録し、クリーンアップを打つまでに成長した衣笠氏は、当時の背番号28にちなんだ“鉄人28号”から“世界の鉄人”への道を歩みはじめる。

 目の高さのボール球までブーン!とフルスイングし、当たればスタンド一直線という豪快な打撃が売りの衣笠氏だが、その一方で、76年に31盗塁を記録し、プロ初タイトルとなる盗塁王を獲得するなど、足でもファンを魅了した。

 ところが、人間誰しも失敗は付き物。78年4月16日の大洋戦(横浜)の2回に二盗に失敗して以来、7月までになんと12連続盗塁死という記録をつくってしまった。

 8月13日のヤクルト戦(広島)の8回にやっと二盗を成功させ、不名誉な記録に終止符を打ったが、同年は盗塁数9に対し、盗塁死が13と失敗のほうが多くなってしまった。

 とはいえ、23年間の現役生活で13回にわたって二桁盗塁を記録。通算266盗塁は、2017年シーズン終了時点で、糸井嘉男阪神)と並ぶ歴代39位の記録である。

 ボールを怖がることなく踏み込んでフルスイングする衣笠氏は、その打撃スタイルゆえに死球も多く、清原和博(西武‐巨人‐オリックス)、竹之内雅史西鉄阪神)に次いで歴代3位の通算161死球を記録している。

 76年8月31日の中日戦(広島)では、3回に先発の高卒ルーキー・青山久人にカウント1−2からぶつけられた後、打者一巡して3番手・金井正幸にも死球を受けたことから、プロ野球史上初の1イニング2死球という“痛い”記録も達成している。

 死球といえば、79年8月1日の巨人戦(広島)7回2死二、三塁で、西本聖から左肩に死球を受けたシーンも忘れられない。

 6回まで広島打線を1失点に抑えていた西本だが、6点リードのこの回に突然制球を乱し、三村敏之、萩原康弘に続いて3つ目の死球だった。

 西本は仰向けに倒れ込んだ衣笠氏に駆け寄り、「すいません」と謝ったが、1イニングに3度もぶつけられた広島ナインは収まらない。たちまち両軍入り乱れての乱闘劇となり、広島・田中尊コーチと巨人・吉田孝司捕手の2人が退場となった。
 
 衣笠氏は病院で診察を受けた結果、左肩甲骨の骨折で全治2週間と診断され、翌日の試合に出場するのは不可能と思われた。

 だが、この時点で衣笠氏は70年10月19日の巨人戦(後楽園)以来、1122試合連続出場を続けており、飯田徳治(南海‐国鉄)の持つ当時の日本記録まであと「124」に迫っていた。

 翌2日の巨人戦、衣笠氏は「バントならできる」と訴えてベンチ入りし、7回1死一塁、大野豊の代打として出場。打席に立っているだけでも記録は継続するのに、江川卓の速球を3度フルスイングし、3球三振に倒れた。

 試合後の「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は(自分がうまく避けられなかった結果、責められた)西本君のために」のコメントも衣笠氏らしい名言である。

*  *  *

 筆者は衣笠氏が国民栄誉賞を受賞した直後の87年、たまたま担当した雑誌のイベントタイアップ企画で、主賓として招かれた衣笠氏にコメント取材をしたことがある。イベント終了後、スポーツ紙の番記者たちが帰ろうとする衣笠氏に気づくのが遅れ、会場の通路脇で見知らぬフリーライターの筆者と1対1のやりとりになったにもかかわらず、折り目正しい態度で、一問一答丁寧に応対してくれた。「何ていい人なんだろう」と感激したことを覚えている。心からご冥福をお祈りしたい。

(久保田龍雄 2018.4.24 18:30)


衣笠祥雄は、忘れられない日本プロ野球のプレーヤーの一人だった。まだ71歳だったのにあまりにも早すぎる。心よりお悔やみを申し上げる。

*1:後年、サッカーの岡野雅行が「野人」と呼ばれたり、柔道の松本薫が「野獣」と呼ばれたりしたのを知る度に、衣笠を思い出したものだ。

*2:近年は広島が再び中日に勝ち越すようになったが、それでもナゴヤドームは相変わらず苦手で、衣笠の存命中最後に行われた先週末の3連戦でもカープは3タテを食った。

*3:特に9回2死から谷沢建一が小林誠二から放った同点2ランは広島市民球場を沈黙させた。この執念の一撃も印象深い。

*4:但し、土曜日のデーゲームだったこの試合で広島市民球場は満員になっていない(翌日の日曜日の対中日最終戦は満員だった。広島は連勝して中日にとどめを刺した)。1973年の阪神対中日の首位攻防戦(但し最終的な優勝球団は読売)で江夏豊ノーヒットノーランをやった夜の甲子園球場のスタンドがガラガラだったこととあわせて今は昔の感慨がある。「読売にあらずんばプロ野球にあらず」という歪んだ時代はあまりにも長く続きすぎた。

*5:実際には、自らのバットで同点に追いつきながら後続の打者が打たれて勝ち越しのホームを踏めず、その直後に力尽きた山田久志の運のなさの方が強く印象に残った。