kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

自民党総裁選で石破茂を応援する「リベラル」たちの愚かさ

山口二郎とか室井佑月とかブログの都会保守氏などは自民党総裁選で石破茂を応援しているようだ。室井については先日書いたので、ここでは山口二郎のツイートを挙げておく。

https://twitter.com/260yamaguchi/status/1023057208118980608

杉田水脈氏の発言「自民は許してはならない」 石破茂氏が批判 https://www.huffingtonpost.jp/2018/07/27/sugitamio-ishiba_a_23491264/ … 石破氏の良識は大いに評価したい。自民党に自由と民主主義があるのかどうか、総裁選挙の争点にしてほしい。

21:07 - 2018年7月27日

この日記では杉田水脈が右翼雑誌に書いた妄言を取り上げたことは一度もないが、それは書く気も起きないほど低劣だからであって、なおかつ2014年の衆院選で次世代の党から立候補して落選していた杉田をスカウトしたのが安倍晋三であることから、安倍は絶対に許してはならないとも思っている。

しかし、いかに杉田や安倍がひどいからといって、そこから「石破氏の良識は大いに評価したい」と宣う腰の軽さには唖然とするほかない。この程度の人物、しかも過去に衆院選への小選挙区制導入を軸とする「政治改革」の旗を振った人物が、今も「野党共闘」を支える「市民連合」の中心にいるらしいことが、「野党共闘」への支持が広がらないどころか最近は狭まっている状況を招いた一因ではないか。しかも、政治思想的には自分のわがままを通したい強い情念があるだけで中身はスカスカ*1安倍晋三より、確信せる極右というべき石破茂の方がよほど危険だ。

石破茂に対する私の意見は、下記2件のツイートに近い。

https://twitter.com/kgssazen/status/1027511349629218816

石破茂は、安倍信者から嫌われているように感じる。それを踏まえると、石破応援団はリベラル層が中心になっているのではないか。戦争できる国にしようとする安倍がダメだから現政権に反対しているはずなのに、安全保障では危険度が安倍と同等かそれ以上の石破氏を支持するのは、整合性に欠けると思う。

4:06 - 2018年8月9日


https://twitter.com/sntb29481/status/1027518075657023493

#安倍じゃなければ誰でもいい とか言ってる人、はっきり言ってバカとしか言い様が無い。安倍政権を批判しているのは、必ずしも反新自由主義で反歴史修正主義護憲派とは限らないぞ。改革が足りん、もっとシバき上げろ、もっと日本は他国に強きになれという奴でも、本当に良いの?

4:32 - 2018年8月9日


「安倍じゃなければ誰でもいい」という言葉から、2009年の政権交代の少し前に、反自公で「政権交代を求める」ネットの住民の間で流行った「『右』も『左』もない、オレは『下』や」というスローガンを思い出した。

前々からずっと書き続けているように、私はこのスローガンはきわめて危険だと考えている。このスローガンの下、当時の「リベラル」たちが極右の平沼赳夫城内実にすり寄ったことを批判し、スローガンの主唱者と長いこと喧嘩をやらかしたものだ。

少し前に読んだブレイディみかこ松尾匡北田暁大の鼎談本『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』(亜紀書房)でも、ブレイディみかこ氏が

もはや「右」対「左」の時代ではない、いまは「下」対「上」の時代なんだっていうことを私はここ数年ずっと言ってきています(同書220頁)

などと言うから私は目を剥いたが、それに対して松尾匡氏が

僕の定義では「世の中を縦に割って、「内」と「外」の内側につくのが右翼」ということになるんです。それで、この右翼的な立場から見ると、「「内」と「外」の外側につくのが左翼」だと思われてしまっていると思います。しかし、もともと「左翼」というのは、経済的な利害関係に基づいていて、「世の中を「上」と「下」の横に割って、下の側に立ちましょう」という立場をとる人たちのことでした。(同書226頁)

と言っていたので、なるほどと思った。

それを受けて、北田暁大氏が松尾氏の著書『これからのマルクス経済学入門』(筑摩書房)からの引用だとして、ナチスみたいな「国家社会主義」は反資本主義なのに「右翼」に該当する、それは世の中を「内」と「外」に割って自民族への富の再分配を訴えるという身内原理主義に属している、左派というのは本来そういう切り分け方自体をとらない人たちのことなんだ(同書226頁)と解説しているのを読みながら、ますますあの「『右』も『左』もない、オレは『下』や」というスローガンのいかがわしさを再認識したのだった。

上記の定義によると、「オレは『下』や」というのは、「オレは『左派』(左翼)だ」というのと同義になる。ところが、スローガンはその前に「『右』も『左』もない」という言葉がつく。これは矛盾したスローガンということになるが、実際にはこう宣言することによって、右翼が主張する排外主義を受け入れることを意味する。

これは、彼らに代表される当時の「小沢信者」(今では絶滅危惧種となっている)にとって実に都合の良いスローガンだった。なぜなら、彼らの主張のポイントの一つは「反米」であって、はっきり「内」と「外」とを区別して内側につくと言っていたからだ。

今でも括弧付きの「リベラル・左派」人士たちにリツイートされることがしばしばある兵頭正俊などは、さらに極右の世界に進み行っていて、いわゆる「嫌韓」的な言葉をよくツイートに紛れ込ませる。だからそれを批判する下記の警告がなされることがある。

https://twitter.com/nagaragawa79/status/1024691948798369792

【通報推奨】
レイシストTwitter上に存在させてはならない。
この人物がやっていることは、安倍批判にかこつけた差別煽動だ。
https://twitter.com/hyodo_masatoshi/status/1024301902698180608
https://twitter.com/hyodo_masatoshi/status/1023337317983866880

9:22 - 2018年8月1日


これは、まことにもっともな警告だ。

問題は、この兵頭のような体質の人間が、当時の「小沢信者」の間には決して珍しくなかったことだ。だから平沼赳夫城内実を持ち上げたのだし、現在自由党に鈴木麻理子なる元「日本のこころ」党員がいるのも、党や支持者の「国家社会主義」的な体質をよく表している。小沢一郎自身は決して「反米」ではなく、それどころか自民党時代にはアメリカ一辺倒の政治を行っていた人間だが*2、政治家はしょせん支持者の志向するような政策しかとれない。やや脱線するが、それは立憲民主党枝野幸男にもいえることで、枝野自身は金融緩和に効果があると看て取るとそれを自らの政策に取り入れようとするような「風を読む」能力に長けており、だから風を読んで立憲民主党を立ち上げることもできたのだと思うが*3、選挙から時間が経った(今のような)平時になると、支持者たちの志向するような政策しかとれない。立民がここ数か月新自由主義的な傾向を強めて「下からの」「草の根」民主主義というスローガンに合致した動きがとれないのは、長年新自由主義を刷り込まれた同党のコアな支持層の志向に縛られざるを得ないからだ。

つまり、まとめて書くと、現在の自由党国家社会主義的な性格も。立憲民主党新自由主義的な政策も、両党の中核的な支持層の志向を反映しているということだ。日本国民の間には国家社会主義的なニーズはほとんどなく、新自由主義的な政策のニーズも数パーセントしかない。それが両党の現在の政党支持率に反映していると私はみている。

そういえば一部で「野党は経済政策を訴えても勝てない」などという妄言を吐く連中が、立憲民主党支持層を中心にいるようだが、なに寝言を言っているのかと呆れるほかない。2009年の政権交代は、小泉純一郎政権当時を中心とした自民党政治によって格差が拡大し、貧困が蔓延した。それが忌避されて政権交代が起きた。

しかし、3年あまり続いた民主党政治は経済政策に失敗した。その後に政権に返り咲いた安倍政権は、私のみるところ政権復帰直後にその効果は限られるが、賃金の下落を止め、雇用を回復させた。だから今も民主党政権と比較すれば、という限定つきで高支持率を保っている。今の民主・民進系「リベラル」たちはその事実をずっと直視できずに今に至っている。昨年の立憲民主党の躍進は、そういう膠着状態を同党が破ってくれるかもしれないと期待されたからだろうと思うが、それを元の膠着状態に戻してしまったのがコアな立憲民主党支持層だ。彼らは昨年秋までの民進党支持層とほぼ重なる。だから、現在の立憲民主党支持層は昨年の民進党代表選当時までの民進党支持率と同じ程度にまで落ちたのだ。

石破茂を応援する「リベラル」への批判が、いつの間にか自由党及び立憲民主党の支持層への批判に転じてしまったが、両者(石破を応援する括弧付きの「リベラル」と、自由or立民支持層)がほぼ重なることはいうまでもない。

*1:安倍晋三の中身がスカスカでなければ、杉田水脈などスカウトしないだろう。

*2:小沢一郎自身の本来の政治的立ち位置は、むしろ後述の立憲民主党の支持者たちに近いと私はみている。つまり親米的かつ新自由主義志向が強い。

*3:一方、枝野幸男自身の思想信条や主義主張にははさして見るべきものはなく、むしろ乗り越えられるべき対象だろうと私は思っている。しかし現実には、枝野への批判を一切許さないような「枝野信者」的な人たちが立憲民主党支持層の中心に居座っている。