kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

新天皇・徳仁と山小屋

 連休の1週間前の週末、丹沢山塊に登り、鍋割山(1272m)山頂にある鍋割山荘*1の鍋焼きうどん(1200円)*2を食べてきたが、小屋に浩宮と呼ばれていた時代の天皇徳仁(私が行った時点では皇太子)の古ぼけた写真が貼ってあった。昭和時代、徳仁がまだ20代の頃の写真だった。ネット検索をかけて下記ブログ記事を見つけたが、小屋に貼ってあったのは下記リンクの記事中にある写真だったかも知れない。

 

blog.goo.ne.jp

 

 ここに限らず、全国であちこちに徳仁が泊まったり立ち寄ったりした山小屋があるが、それらの小屋では「皇太子」の表記を「天皇」に書き換えたりしたのだろうか。

 ここ数日、テレビは前天皇夫妻と徳仁夫妻の宣伝に余念がなく、うんざりさせられるが、徳仁プロ野球では(私が忌み嫌う)読売のファンだった。但し、長嶋や王といったメジャーどころではなく、末次民夫の大ファンだったという。これまでも、大昔に読売対阪急の日本シリーズで末次が殊勲打を打って読売が勝った時に「浩宮」が喜んだとかいう新聞記事を読んだ記憶がたまに思い出されてネット検索をかけたことが何度かあったが検索に引っかからなかった。その件も、徳仁の即位によって再発掘された。

 

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cc7a94ce4b07c9a4ce80b7e

 

1971年10月17日朝日新聞東京本社版の朝刊によると、10月16日の日本シリーズ第4戦の読売ジャイアンツー阪急ブレーブス戦を学友と共に観戦。

読売ジャイアンツの外野手として活躍した末次利光(当時は民夫)選手の満塁ホームランに飛び上がって拍手を送ったという。

浩宮さまは末次選手の大ファンで、学校の野球チームでも末次選手の背番号38を付ける熱狂ぶりだった。

 

(ハフポスト日本版 2019年4月30日 14時30分)

 

 私が記事を読んだのは朝日ではなく毎日新聞だったはずだが、読売新聞の商売敵である朝日や毎日にも載ったくらいだからどの新聞にも徳仁の記事が載ったに違いない。これは山田久志(のち中日監督)が王に逆転サヨナラ3ランを浴びた有名な試合の翌日に行われ、末次の満塁本塁打は、前日にエースが先発して勝利目前だった試合を落として1勝2敗となった阪急を追い詰める大きな一打だった。

 山の話に戻ると、徳仁が若い頃に「日本百名山」の踏破を目指していた話はよく知られている。そして、徳仁が登るためにわざわざ自然を破壊して「新ルート」が作られたことも有名で、特に平ヶ岳の「皇太子ルート」*3は悪名高い。13年前の2006年9月8日にこの日記で取り上げたこともある。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 だが、上記記事から張ったリンクは2件とも切れている。

 この平ヶ岳というのは新潟県群馬県の県境にあり、山頂でのテント泊が原則として禁じられている*4ため、踏破は結構難しい(私など行こうと思ったこともない)。そこで、徳仁に頂上を踏ませるために自然を破壊して新ルートが開かれた。徳仁の登山記録をまとめた下記サイトを参照すると、

通常6時半かけて登るのが通常のコースだが平ヶ岳山頂まで3時間程で登る方法があり、浩宮が利用。「皇太子の1986年10月の平ヶ岳登山のために相当な税金と地元の人々の努力により、この新しいショートカットルートが開かれたと書かれています」(♪*5より要約、抜粋)

とのことらしい。徳仁平ヶ岳に登ったのは引用文にもある通り1986年10月14日で、脱線するがその一週間前にはヤクルトスワローズのマーク・ブロハードが読売の槙原から逆転2ランを放って読売のリーグ優勝を阻止していた*6。もっともその頃になっても徳仁が読売の応援を続けていたかどうかは知らない。

 最初の鍋割山の話に戻ると、徳仁が鍋割山に登ったのは1982年11月14日で、この時には鍋割山から塔ノ岳に出て丹沢山(1567m)のみやま山荘で一泊し、翌日丹沢山塊最高峰の蛭ヶ岳(1673m)を経て、結構なアップダウンのある丹沢山塊主稜の稜線をたどって西丹沢最高峰の檜洞丸(ひのきぼらまる、1601m)を経て下山した。私も逆側から行ったことがあるが、なかなか歩き応えがあるコースだ。徳仁一行が行ったのは晩秋の曇天の日だったようだが、私が行ったのは初夏で高温のよく晴れた日だったので、水分の補給に苦労した。主稜の稜線から水場までは結構遠かったのだ。平ヶ岳にも水分補給の問題があるらしいことは、下記ブログ記事で確認できる。

 

medium.com

(前略)平ヶ岳新潟県群馬県の県境にある山。百名山の一つで山頂にとても綺麗な草原が広がるすばらしい山だ。私が今まで登ったことがある山の中でもトップクラスに思い出に残っている山でもある。

ただこの山は地図に載っているルートは1つしかなく、非常に長い行程である上に、途中に水場はない。テントを張ることも禁止されているので日帰りで行くしか無い。私も日の出の直前に登山口を出発したのに、登山口に戻って来れたのは夕方で日の入りまで1時間も無いくらいの時間だったし、4リットル持って行ったはずの水も登山口に着く直前で尽きてしまった(登山中に水がなくなることは死活問題であるため、水が尽きてしまうのはかなり問題だ)。このように平ヶ岳は基本的に登山経験者でないと登れない山として知られている。

しかしこの平ヶ岳には秘密のルートが存在している。今の天皇陛下が皇太子だったときに平ヶ岳を登山しようとしたらしく、その際に宮内庁が用意したショートカットルートが存在するのだ。正規のルートではないので市販されている登山地図には載っていない。地図なしで登山をすることは自殺行為なので絶対にやってはいけないが、地元の宿?に泊まると案内してもらえるらしい。そのルートであれば初心者でも登れる程度の難易度になるらしい。

『らしい』が続くのは先程も紹介したように正規のルートではないので堂々と使うことができず、あまり大っぴらにされない情報なので私も一次情報を持っていないからだ。このルートは『皇太子ルート』などと呼ばれていて、登山者の中ではそれなりに知られている話だ。

実際私が山頂に行ったときに、明らかに登山に慣れてない人が別のルートから訪れていたので、地図にはない別のルートが存在していることは間違いない。(後略)

 

https://medium.com/@catatsuy, 2018年4月17日)

 

 引用文中に「今の天皇陛下が」とあるが、書かれたのが去年の4月なのでこれは著者の勘違いで、当時の天皇(現時点では前天皇)が平ヶ岳に登ろうとしたことはない。引用文が書かれた時点では皇太子だった徳仁が「浩宮」と呼ばれていた頃に平ヶ岳に登ったというのが事実だ。「皇太子ルート」と呼ばれているのは、この件が広く知られるようになったのが昭和天皇が死んで前天皇に代替わりしたあとのことだったからだろう。

 「深田百名山」の弊害については昔から本多勝一などがよく書いていたが、上記引用文に書かれているような後ろ暗い手段を使ってまでピークを踏んで「百名山を制覇したい」などとは、一ハイカーに過ぎない私は全く思わない。地図にもおおっぴらに載せられないルートとはいったい何なのか。そんなことをして自然破壊を助長し、「基本的に登山経験者でないと登れない山」を痛めつける行為とはいったい何なのだろうか、何のために山に登るのだろうかと思わずにはいられない。そういう疑問を持たない人が、改元直前に「カウントダウン」をやったりディスコで踊り狂ったりするのだろう。

 かつて徳仁が登山するために宮内庁が勝手に切り開いたルートは、このような弊害を後世(もう30年以上経っているのだから立派な「後世」だろう)に残した。天皇制にはこんな弊害もある。

 但し、自然に対しては加害者である徳仁もまた天皇制の被害者だ。徳仁が熱望した「百名山登山」は、前記徳仁の登山記録をまとめた下記サイトを参照すると45座にとどまっている。これは私が登ったことがあるのとほぼ同数だ。

http://seiyou.ehoh.net/seiyou/+yama.htm

 

 上記サイトを参照すると、徳仁は1987年に南アルプス白峰三山北岳間ノ岳農鳥岳)を縦走しているが、「平成」に入って皇太子になると、長い行程の登山には行かなく(行けなく)なった。北アルプス槍ヶ岳にも、徳仁(夫妻)のために登山道がずいぶん整備されたとの噂がある八峰キレット*7にも結局行かせてもらえなかった。徳仁は皇族として行動を束縛されるわが身の不運を呪ったこともあったのではないか*8

 徳仁が訪れた山小屋の中には、1969年に合宿していた新左翼連合赤軍が一斉検挙された「大菩薩峠事件」の現場である「福ちゃん荘」があった。そう指摘するのは原武史だ(岩波新書『平成の終焉 - 退位と天皇・皇后』161頁)。

 

www.iwanami.co.jp

 

 徳仁が雅子とともにこの山小屋を訪れたのは結婚9年後の2002年。宿泊はしていない。今世紀に入ってから徳仁が山小屋に泊まったのは4回しかないと思われる*9。2005年に徳仁八ヶ岳最南部の編笠山にある青年小屋に泊まったのは、結婚前の1992年に北アルプスの常念小屋に泊まって以来13年ぶりのことだったらしい。

 新天皇徳仁は、あるいは今も「もっと山に行きたかったなあ」という思いが脳裏をよぎることがあるかもしれない。以前にも引用したかも知れないが、前記原武史は『平成の終焉』に下記のように書いている。

 

  前述のように、徳仁自身が自然や水、環境という、国境を越えたグローバルな問題に対する関心をもっていました。私がひそかに着目しているのは、天皇になっても、徳仁が右派のもくろみに対抗するかのように、相変わらず気軽に山に登り、たまたま出会った人々に話しかけることができるかどうかです。これからは外国人の登山者もますます増えると見られます。もし国の内外に関わりなく、すべての人々に話しかけることができれば、「平成」との違いはいっそう明らかになるでしょう。

 

原武史『平成の終焉 - 退位と天皇・皇后』岩波新書 2019, 213頁)

 

 正直言ってないものねだりではないかと思うが、万一、徳仁・雅子の新天皇夫妻が「宮中祭祀くそ食らえ」とばかりに「作られた伝統」を打破する闘争を始めるのであれば、現時点ではこの夫婦に全くといって期待していない私も彼らを見直すことになるだろう。それと同時に、右翼と一緒になって新天皇夫妻に「前の天皇・皇后両陛下と同じように宮中祭祀を真面目にやれ」と圧力をかける「リベラル・左派」の浅はかさ*10も明らかになるだろうと思うのだが、どう考えても望み薄だろうなあ。

*1:現地で知ったことだが、鍋割山荘は今年(2019年)から大晦日を除いて宿泊を受け付けなくなった。これは最新版(2019年版)の『山と高原地図29・丹沢』にも載っていないから、泊まりで丹沢に行こうと思っておられる方は注意されたい。小屋の主人である草野延孝氏が高齢になった影響とのこと。

*2:初めてではなく2000年2月に一度食べたことがあったが、当時は関東風の醤油に染まっただしだったのが関西風を思わせる薄味に変わり、ボリュームも増えた代わりに値段も上がっていた。最近は首都圏でもだしが醤油で真っ黒の、麺まで黒く染まったうどんは姿を消しつつあるようだ。

*3:これも徳仁の即位に伴って「天皇ルート」とよばれることになるのだろうか。

*4:https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1232104.html 参照。「最初からテント泊を目的としての幕営は禁止」とのことだが、テントを担いで登れば「最初からテント泊を」意図していたことになるのではないかとの疑問が残る。なおネット検索をかけると平ヶ岳にテント泊をした記録は結構みつかる。

*5:リンクが張られていないので出典は不明。

*6:http://neeskens.kir.jp/kami4.html

*7:五竜岳鹿島槍ヶ岳を結ぶ縦走路中にある「難所」。危険はずいぶん軽減されたが、それでも私が行った時にも骨折者が小屋に運び込まれるなどしていた。なお徳仁五竜岳単独には昭和末期の1988年8月に唐松岳からの縦走で登っているが、鹿島槍には向かわず遠見尾根を下りたようだ。徳仁鹿島槍への登山記録は残っていない。

*8:逆に、槍ヶ岳にも八峰キレットにも行ったことのある私は、天皇家なんかに生まれないで良かったと心の底から思う。

*9:八ヶ岳編笠山の青年小屋(2005)、雲取山荘(2007)、富士山の赤岩八合館(2008)、八ヶ岳天狗岳の黒百合ヒュッテ(2017)。

*10:「リベラルな(前)天皇夫妻」を信仰する「リベラル・左派」のありようはこのようにでも表現するしかあるまい。