kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「陰謀論」の問題点と荻上チキ氏の「結果スピン」論

 沢尻エリカ容疑者の逮捕が「桜を見る会」から目をそらさせる「スピン」だとする陰謀論が流布した件に関して、元毎日新聞の石戸諭氏がネットに記事を出したが、しっくりこない点がいくつかあったのでこれまで取り上げなかった。石戸氏の記事は下記。

 

news.yahoo.co.jp

 

 石戸氏は陰謀論の問題点について、下記のように論じている。以下、上記にリンクした記事から引用する。

 

陰謀論の問題点

 「芸能人の逮捕と政権の不祥事」がつながっていると言うならば、確たる証拠が求められる。証拠がないままの主張は陰謀論と言わざるを得ない。

 日経サイエンス2014年2月号に掲載された「陰謀論をなぜ信じるか」によると、陰謀論の本質的な問題は「政治的な重要な問題への一般市民の関心をそぎ、妨げてしまう恐れ」にあるという。

 いくつかの研究を簡単にまとめれば、陰謀論の基本は「根本的な帰属の誤り」と呼ばれる認知バイアスにある。これは「他者の行動の背景に意図を過大に感じ取る習性」だ。これが働き出すと、人は複雑な政治問題や、多くの人が関与するような問題であっても、単純な説明で世界を理解するようになる。

 ネトウヨがちょっとした言動から「在日」認定し、日本のあらゆる問題を在日コリアンによるものと主張する様を思い出すといい。

 もう一つの大きな要因は「権威・権力」への不信だ。権力は基本的に信用できないという信念を持っていれば、いくつかの主張に矛盾があったとしても、「権力への懐疑」さえ共有されていれば、もっともらしさを感じることができる。

社会問題への関心を低下させる

 陰謀論の決定的な問題は、社会問題について、人々の関心を低下させることにある。英ケント大の研究によると、地球温暖化について、陰謀論を支持する見解を被験者に読ませたところ、彼らは政治的問題に関与する気が薄れ、身近な温暖化対策にも消極的になった。

 陰謀論はあまりにわかりやすく、安直なストーリーであるがゆえに、同じ価値観を有する人々の間では盛り上がるが、異なる価値観との間では議論が成立しにくい。

 安倍政権に批判的であること、政権の説明を疑うこと自体はまったく問題ないし、私もまた批判すべき点が大いにあると思っていることは冒頭に書いた。大事なのは、批判や疑いが確かな根拠に基づいているかだ。関連が薄そうな問題をセンセーショナルにつなげて、証拠もないままに陰謀論を展開することは、結果として政治への関心の低下を導くのではないか。

 

出典:https://news.yahoo.co.jp/byline/ishidosatoru/20191118-00151366/

 

 ここに書かれているような問題もあるのだろうが、それよりも、陰謀論を唱える側が自らを甘やかした結果、自らの勢力自体に悪影響を与えてしまう弊害が大きい。下記はそれを指摘した記事の例。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

 以下引用する。

 

幾度か書いたけれど、陰謀理論の問題というのは〈主体性〉を巡る問題でもある*3。要するに、一方において大陰謀を実行する強大な主体を設定することによって、自らの主体性の危機(無力感)を正当化し、、他方においてはその陰謀に為す術は持たないが陰謀の存在及び下手人を正しく認識している無力ではあるが明晰な主体としての私を救出すること。これをロマンティック・アイロニーと呼んでいいのだろうか。また、陰謀理論の消費者にとっては、陰謀理論を供給してくれる別の主体に対する拝跪が同時に行われることも珍しくない。勿論、安手のシニシズムに奔る可能性も少なくはないのだけど。

 

出典:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/11/21/131432

 

 上記の視点が石戸氏の記事からは欠けていると思った。

 実際、小沢一郎の一派が民主党から分派したあと、2012年の衆院選日本未来の党9議席)と2013年の参院選(生活の党0議席)に相次いで惨敗したことの要因の一つとして、コアな支持層というか「小沢信者」たちが陰謀論に傾斜したことがあるのではないかと私は考えている。

 

 しかし、石戸氏の記事への食い足りなさはこのことだけにとどまらない。それを指摘してくれたのが下記に示す荻上チキ氏の記事だった。

 

note.mu

 

 荻上氏はこの記事で、

記事の趣旨はほぼ同意できる。根拠なき陰謀論は、議論リソースを無駄に消耗させてしまう。また陰謀論は、世界を単純化する思考に人々を慣れさせてしまう他、友敵図式のフィルタリングバブルを強化する。

と書きつつ、それに加えて新たな視点を提供する。以下引用する。

 

同意できない点というか、補足点は以下。おそらく皮肉を込めたであろう、「そもそも『桜を見る会』の出席者名簿すら管理できない政権で、なぜ芸能人の逮捕リストを管理できるのか」の一文は、余計であると思った。というのも、両者は同じ「管理」という言葉でくくれない。政府は公文書を「管理できない」のではなく、破棄することをもって管理としている節がある。また、ここ数年だけでも、実際上は破棄されたはずの公文書が度々存在してきた前例があることは、例えば石戸氏の古巣である毎日新聞が、「公文書クライシス」という優れた連載で明らかにしている。

 

他方で、政治問題から目を背ける「スピン」については、世界で事例はいくつもある。では日本では実際どうか。個別の事例ではわからない。ただ、メディア関係者と総理との会食が「寿司友」と批判されるように、懇意にしている記者が与党有利な「解説」をしたり、官邸で質問に当てられやすかったり、官房機密費が順調に活用されていたり、あるいは新聞業界が軽減税率については都合の良いオピニオンを流していたりするような、距離感の取り方そのものは、常に批判的検証が必要だ。 

陰謀論」を批判する次に求められるのは、「陰謀論」に陥らずとも、メディアの報道についての批判的検証は可能だ、と共有することだろう。メディアが自発的に、ニーズに合わせて芸能スキャンダルを取り扱うことが、主権者教育の機会を失わせるとは僕も思う。だからメディア関係者は、メディア期待をめぐる政治についても、アンテナを高める必要がある。

 

僕は、「スピンか否か」という政治意図に着目するのではなく、「結果がスピン的になっていないか」という政治効果に着目するのが重要だと思っている。そして、結果的に政治ニュースの優先順位を下げるような報道のあり方を、「結果スピン」と読んでいる。

(中略)

薬物所持の容疑で逮捕された芸能人の、前日の服装や表情がどうだったのかという情報は、僕にとっては無価値で、薬物報道ガイドラインの観点からすれば有害であるとも思う。そうしたニュースが、より重要と考えるニュースからの「結果スピン」になっているではないかという視点は、メディア論の末席に携わるものとしては常に考えている。

 「陰謀論」的な立論の貧しさに対して、警鐘を鳴らすことは大事だ。他方でこうした政治的な議論においては、「問題を追及している人間の愚かしさ」をあげつらうこともまた、問題点そのものをうやむやにするような力もある点に注意も必要だ。例えば追及している人たちのうち、極端な意見の人だけに着目して嘲笑し(セレクティブエネミー)、どっちもどっちのような雰囲気となったところで、議論がおひらきになるというような仕方で。「陰謀論に問題だよね」という議論をするとき、それ自体が「結果スピン」として機能しないよう、私たちはすかさず、議題設定のあり方を意識しなくてはならない。

 「こっちの方が大事だろう」という声は、どのような報道機会にも行われる。「桜を見る会」を報じることに対しても、「くだらない」という声もあれば、「日米貿易協定こそ大事だ」という声もある。僕個人は、先に説明したような「桜を見る会」の論点は、いずれも重要であると思うし、軽視していい問題とは思わない。他方で、「問題の優先順位」については人によってばらつきがある。個別の政治だけでなく、優先順位をめぐる政治水準についても、私たちは絶えずコミュニケーションを行っている。難しいように見えるかもしれないが、少なくともメディア人は、なぜこのような報道の優先順位なのかと、ルーティンに陥らず、問い続けながら報道に取り組んでほしい。

 

出典:https://note.mu/ogiuechiki/n/nc37d8eb10b76

 

 そうなのだ。私が石戸氏の記事に引っかかった点も、陰謀論がそれを唱える側自身に与える悪影響の指摘がないことのほか、「そもそも『桜を見る会』の出席者名簿すら管理できない政権で、なぜ芸能人の逮捕リストを管理できるのか」という文章にあったのだった。私は、それは違うだろ、この論理を持ち出すと「どっちもどっち」論になってしまうんじゃないか、と直感しながらも、そこから論理を組み立てて記事にすることはできなかった。

 問題点を的確に把握し、論理的に考察した上で「結果スピン」という、問題点を一語で表す言葉を用いて記事をまとめることは、能力の高い書き手でなければできないことだ。荻上氏に脱帽した。

 この記事には多くの「はてなブックマーク」がついているが、陰謀論者が荻上氏の記事に含まれる、陰謀論に対する石戸氏の「不用意な批判」を批判した部分にのみ着目してつけた我田引水のブコメが多くのスターを集めたりしている例もあって、ため息が出た。そんな中で、私がもっとも良いと思ったブコメは、「人気コメント」の下の方にあった。それを下記に示す。

 

「桜を見る会」と芸能報道から考える、「結果スピン」の効能|荻上チキ|note

「「陰謀論」に陥らずとも、メディアの報道についての批判的検証は可能」「少なくともメディア人は、なぜこのような報道の優先順位なのかと、ルーティンに陥らず、問い続けながら報道に取り組んでほしい」同意

2019/11/19 22:15

b.hatena.ne.jp