kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ともに人間性が顔に表れている森喜朗と菅義偉の「没落への道」

 森喜朗についてだけれど、テレビで森の顔が映し出されるといつも「こいつは人相が悪いよなあ」と思ってしまう。「40を過ぎたら顔に責任を持て」というリンカーンの言葉があるが、これはその前に「男は」という限定語があることから最近ではあまり使われないし、性別ばかりか顔を云々すること自体差別的だとされることが多い。

 しかしながら、性別の限定を入れるのは確かに差別的だろうが、ある程度以上の年齢になると生き方が人相に表れるというのは否定しがたいと私は思う。

 菅義偉が総理大臣になった頃、辺見庸が菅の顔を「特高顔」だと評したが、うまいこと言うなあと思った。実は私も以前から菅の人相が嫌いで嫌いでたまらなかったのだ。あれは後ろ暗さを感じさせずにはいられない人相だ。実際、菅は総理大臣になるや、安倍晋三からの申し送りではあるらしいが学術会議の任命問題でパワハラをやらかしてその人事を撤回しようともしなかった。また新型コロナウイルス感染症対策は何もしないばかりか明らかに逆効果である「GoToキャンペーン」に固執した結果、第3波だけで5千人以上もの死者を出した*1。ところがその一方で議論にはからっきし弱く、国会での答弁の時間は短いし、その短い答弁も何を言っているのかわからないことが多い。

 要するに菅とは頭が悪いけれども地位を笠に着たパワハラだけは得意な陰湿な人間だ。その陰惨な人間性は10年以上前に私が菅の顔を最初に見た時からはっきり顔に表れていた。

 森喜朗の場合は菅義偉のように陰々滅々とはしていないが、頭の悪さには昔から定評があり、しばしば「鮫の脳みそ」との言葉で語られた。そんな森に対するイライラを爆発させたのがエリートの加藤紘一だったが、2000年末の「加藤の乱」は失敗に終わった。当時から森の首に鈴をつけることは難しかったのだ。結局、昨日20年目を迎えた「えひめ丸事故」で、事故の一報を知りながらしばらくゴルフ場にとどまった行動が批判を浴びて内閣支持率が低下するなどして退陣に追い込まれた。

 菅と森とを比較すると、菅が「暗い馬鹿」なのに対して森は「明るい馬鹿」といったところだろうか。テレビで口を尖らせた森の顔が映ると、昔よく使われた「パッパラパー」*2という言葉を思い出す。もちろん大時代的な森の価値観は論外だが、ああいうのは時代とともに廃れていくものだろう。今では選択的夫婦別姓に反対する人は2割くらいしかいないし、日常生活で主に元号を使う人間も同じくらいしかいないのではないか*3。もちろん森は代えた方が良いというか代えるべきだが、今になって稲田朋美が森を批判したくらいで稲田をほめたたえるのもおかしい。稲田が「わきまえたい女でありたい」とTwitterで呟いたくらいで「勇気ある意見発信だ」などとは私は全く思わない。そもそも稲田の正体が「人気とりのための極右」に過ぎなかったことは今では明らかになりつつある。稲田は新たな時流に乗ろうとしているに過ぎない。

 時代の変化は、ある時期まではそれまで長く続いた因襲に押さえつけられてなかなか表に表れないが、ひとたびその因襲に亀裂が入り始めると、怒濤のように表面に出てくる*4。多くの人々が森喜朗批判へと舵を切ろうとしている今がその時期なのかもしれない。稲田朋美はおそらく、今までのような極右の演技をしているよりは、森喜朗を批判した方が楽なのではないか(しかも明らかにその方が得だ)。それくらい森を批判するためのポテンシャルの壁は下がってきている。

 森喜朗東京五輪組織委員会委員長辞任は、もはや時間の問題だろう。菅義偉政権の終焉も、そう遠い先の話ではない。

*1:昨日(2/10)も過去最多の121人の死亡者数が発表された。これで昨年10月以降の死者は5151人に達したが、最終的には第3波全体で6000人を超えるだろう。

*2:この言葉は1982年頃に流行したらしい。

*3:もちろん役所関係の書類など、元号の使用を事実上強制される場合は除く。

*4:それが政界で起きた一例が2017年の立憲民主党発足と衆院選での躍進に伴う旧民主・民進右派の没落だったのではないか。それが起きる直前まで、民進党内では「もっと右に寄らないから伸びない」という、前原誠司細野豪志長島昭久らの意見が幅を利かせていて、そのために岡田克也が代表辞任に追い込まれたが、いざ前原が民進党代表になって小池百合子の「希望の党」と合流し、小池が「排除発言」をやらかすと同時に政局が大きく動き、それまで右バネを働かせていた前原・細野・長島は居場所を失って四分五裂した。現在では民主・民進系の「右バネ」を働かせる中心人物は、彼ら3人ではなく国民民主党玉木雄一郎山尾志桜里になっているが、前原や細野らが民進党ででかい顔をしていた頃と比較すると、影響力の小ささは否めない。現在起きようとしている森喜朗菅義偉の没落も、それと同じパターンではないかと思えてならない。