立花隆の訃報について記事を書いた時、私があの「知のなんとか」という形容を意識的に避けたことはいうまでもない。「なんとか」は普通名詞としては必ずしもNGワードではなく、あの語頭にアクセントがくる発音の固有名詞が邪悪であるに過ぎないが、それでもあの言葉を使うのは気分が悪いのだ。それに、立花隆には晩年オカルト的な傾向も強かったようだから、「知のなんとか」というよりは「巨大な混沌」*1の人だったという印象が強い。
— 仲俣暁生(thoughts, words and action) (@solar1964) 2021年6月23日
「知の阪神」を自称していた人間が一人いる。深見東州だ。奴は「進撃の阪神」と銘打って新聞に広告を出していたこともある。深見は本名を半田晴久といい、プロ野球・阪神タイガースの佐藤輝明と同じく、阪神甲子園球場がある兵庫県西宮市の出身なのだ。「進撃の阪神」の新聞広告は7年前のクソ暑い夏に見かけ、なんじゃこりゃと思った*2。深見は「天皇制を重視し、世界連峰形成を目指す」などと抜かすトンデモ右翼の「宗教家」だが、「進撃の阪神」などと宣伝してくれるのを喜んでかどうか、阪神電鉄が広告に使っていたという。このあたりが阪急の傘下に入った今なお残る阪神の軽薄な体質といえようか。
「知の西武」は…やっぱり原武史さんとか…? https://t.co/wyaRxVLeSl
— kota otani (@koutaotani) 2021年6月23日
「知の西武」も一案かもしれないが、私のように深見東州を連想する人間もいるので、あまりよろしくないのではなかろうか。だから「誰か『知の○○○○』はいないか」とは書かないでおく。
立花さんは明学でこう言った。「日本の反対党として常に反対の声を上げ続ける勢力としては、共産党は日本の政党のなかでoppositionの役割を歴史的に立派に果たしてきたと思いますし、これからも果たすに違いないと思っているんです。ですから、私は選挙のときに共産党に投票したことが何回かあります」 https://t.co/WiYoqgW3rE
— 原武史 (@haratetchan) 2021年6月23日
日本共産党の機関紙のこのあり方は大問題だ。
かつ共産党が立花隆を弾劾した時の立場を現在も変えていないのであれば、訃報記事を書いた上で「死者に鞭打」てば良い。マーガレット・サッチャーが死んだ時、イギリスのサッチャー批判者たちはみんなそうした。しかし日本では、普段サッチャーを批判していた人たちでも、さすがに批判なしに済ませはしなかったものの、訃報に接して強い批判を前面に打ち出すことは避けた。
ましてや日本共産党は「民主集中制」を今も堅持している。立花隆の存在を「なかったことにする」のが共産党の公式な姿勢だとするなら、そんなものは断じて受け入れられない。
共産党が「なかったこと」にしていることは少なくない。東日本大震災の前までの原発に対する同党のスタンスは、現在のそれとはかなり違っていたが、同党はそれに頬被りしている。LGBTについてはさらに露骨だ。かつて同党は、同性愛は「資本主義の社会的・道義的退嬰を反映したもの」と位置づけていた。1970年代のことだ。そうした負の歴史に同党はほとんど触れず、事実上「なかったこと」にしてしまっている。1980年頃まで「武装中立」を長期目標にしていたことに対しても同様だ。
私も選挙で日本共産党に投票したことは何度もあるし、今年の衆院選でも、時に右翼バネが強く働いたり財政再建派が多かったり本多平直を擁護する支持者がいたりする立憲民主党にも、一時国民民主党にすり寄るかのような動きを見せた社民党にも、ましてやその民民や某「組」にも投票する気は一切起きないから*3、止むを得ず消去法で共産党に投票することを考えている。
しかし、「鼻をつままずに」共産党に投票することなど決してできない。そもそも鼻をつままずに投票できる政党など一つもないが。
共産党と大喧嘩しながらも時には共産党に投票したという立花隆と、立花の死を「黙殺」する共産党中枢部の人たちとでは、はっきり言って人間の「格」が全然違う。
立花隆の訃報記事には書かなかったが、死の訃報を機に、私が膨大な氏の著書の中で一番読んでみたいと思うのは『日本共産党の研究』で、その次が『武満徹・音楽創造への旅』である。