日本で2番目に高い山と2番目に長い川はわかったが、2番目に広い湖として「八郎潟」という名前が思い浮かんでしまった。もちろん私が生まれる前に始まった干拓によって2位の座を失ってしまったことは小学生時代から知っていたが、その頃強烈に印象に残ったのは「日本で2番目に広かった湖が干拓されてしまった」ということであって、それに続く旧3位、現2位がどこだったかは頭に入らなかった。サロマ湖かなと思ったが同湖は旧4位、現3位であって、2位は霞ヶ浦だった。茨城県民の方の怒りを買うかもしれないが、このあたりが土着の関東民ではない悲しさというべきか。
上記リンクの記事によると、日本で一番高い山が富士山であると正答した人は81.3%、2位の北岳は17.9%、3位の奥穂高岳と間ノ岳(あいのだけ)は5.0%だった。しかし、3位は奥穂高岳を答えただけで正解にしたのか、両方を答えられて初めて正解にしたのかはわからない。再測量によって間ノ岳が同点3位と決定されたのは2014年のことだから、おそらく奥穂高岳だけで正解としたのではないかと思う。
川の長さで1位の信濃川(51.3%)と利根川(14.3%)はすぐ出てくるが、3位の石狩川(6.3%)はわからなかった。ここでも利根川の認知度14.3%は茨城県民の怒りを買うかもしれない。
しかしそれよりも私が驚いたことがあった。それは私自身も2位がわからなかった湖の広さだが、関西の人で1位琵琶湖の名前が出てこない人はいないだろう。しかし琵琶湖の認知度は70.6%止まりで、特に20代では51.8%だった。半分しか知らないのかとびっくりした次第。まあ私も人のことは言えないが。なお霞ヶ浦は14.1%、サロマ湖は5.5%だった。
それにしても秋田県。江戸時代の1804年には象潟(きさかた)が地震で陸になってしまった。そして八郎潟は20世紀に干拓された。
以下引用する。
象潟は昔、大小百前後の島を浮かべた文字どおりの潟(入り江)で、平安時代から和歌に詠まれてきた景勝地でありました。三大歌集の一つ「新古今和歌集」にも象潟を詠んだ歌が登場します。
松尾芭蕉の「おくのほそ道」の旅は歌に詠まれてきた名所(歌枕)を訪ねる旅であり、中でも敬愛する漂泊の歌人・能因や西行が歌に詠んだとされる象潟は目的地の一つでした。芭蕉が旅に出た1689年は西行の五百年忌に当たっています。
芭蕉が「おくのほそ道」で、名文と名句によって象潟を紹介すると、今度は芭蕉の足跡をたどって多くの文人たちが訪れるようになりました。中でも有名なのが小林一茶です。芭蕉が訪れたちょうど百年後の1789年に象潟を訪れています。
1804年に象潟は地震で陸になりましたが、それでも象潟を訪れる文人たちが絶えることはありませんでした。芭蕉二百年忌に当たる1893年には正岡子規が象潟を訪れました。子規は象潟からさらに北上し、八郎潟まで足を伸ばしています。当時まだ潟であった八郎潟に象潟の面影を求めたのかもしれません。その後、大曲駅前の旅館から親友の夏目漱石にはがきを書いており、そのはがきには象潟を詠んだ句を添えています。
現在、水田に浮かぶ島々には、鳥海山の噴火や地震のジオの記録だけでなく、文人たちの想いやエピソードをも秘めているのです。
小林一茶(1763-1828)が象潟を訪れたとき、一茶は26歳(数え27歳)だった。地震で象潟が埋まってしまった時には一茶41歳(同42歳)。その15年前に一茶は象潟を訪れていた。
1893年に正岡子規が象潟を訪れた時、面影を求めてかどうか八郎潟まで足を伸ばしたが、その八郎潟も今度は人為的に陸になった。
そういえば東京東部の現住所もかつて岡山県倉敷市で私が住んでいた場所も江戸時代に埋め立てられたのだった。東京都江東区の深川は慶長年間(1596-1615)に大坂から移住した深川八郎右衛門、砂町は1657年の明暦の大火のあとに、やはり大坂から移住してきた砂村新左衛門(出身地は越前)がそれぞれ開拓したという。
今世紀初頭には大阪ではなく兵庫ではあるが、芦屋市や神戸市東灘区で政治活動をしていた井戸正枝氏に大阪府生まれ兵庫県育ちの私が衆院選の東京15区で投票しようとしているのも何かの縁かもしれない。プロ野球日本シリーズも、ヤクルト対オリックスあるいは阪神対千葉ロッテの対戦になるかもしれない今日この頃。