kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

元広島監督・古葉竹識は確かに名将ではあったが……

 元広島カープ古葉竹識監督の訃報について直後に何も書かなかったのは、どうしても批判の言葉を差し挟まずに記事を書くのは難しかったからだ。しかし、神子島慶洋氏のツイートとブログ記事を読んで書くことにした。

 

 

 古葉竹識(もとは「毅」だったが28歳時の1964年に改名)が鉄拳制裁を常用していたことは、1970年代からプロ野球を見ていた私はよく知っていた。当時の監督にはそういう人が多かった。古葉と2年続けて日本シリーズを争った近鉄(その前は阪急、もっと前には大毎)監督の西本幸雄も、「ミスター」などと(不当にも)呼ばれている長嶋茂雄もそうだった。鉄拳制裁が下火になり始めたのは1980年代ではないか。80年代から90年代にかけては星野仙一が暴力監督として悪名高かったが、星野以外となるとすぐには名前が出てこない。長嶋も1993年以降の第2次監督時代には、ヤクルトとの死球合戦で「目には目を」などとエキサイトして本性を表してはいたものの、自軍の選手たちに対してかつての西本聖や角三男らにふるったような暴力の話はほとんど聞かなかった。その代わり金権補強という別の醜悪なイメージは膨らんでいったが。

 

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 カープの黄金期というと、わたしがまだ乳幼児だった時代だし、古葉監督が退任したのも小学生時代だった。なので、リアルタイムではっきりした記憶があるわけではない。

 とはいえ、高橋慶彦衣笠祥雄北別府学大野豊川口和久など、同監督が育てた選手たちのその後の活躍はよく覚えている。

 

出典:https://ameblo.jp/kagoyoshi/entry-12710855182.html

 

 カープは1979年から86年までの8年間に4度リーグ優勝し、3度日本一になっているから、その頃が黄金時代だろう。うち1986年だけは阿南準郎が監督を務めた。この年の阿南監督は前年に猛虎打線が猛威を振るった阪神を徹底的にマークして優勝争いからまず脱落させ、読売とのマッチレースに持ち込んできわどく制した。今年のヤクルトと阪神の争いと同じく、勝ち星が読売より少なかったが勝率の差で優勝した。神子島氏が名前を挙げた北別府、大野、川口は古葉監督時代末期から阿南監督時代にかけてのカープの三本柱で、阿南監督は阪神戦にこの3投手を徹底して当てるローテーションを組むのが常だった。しかしこの3投手をローテの中心にしたのは古葉監督時代だ。古葉は江夏をトレードで獲得して1980年まで抑えの切り札として使っていたものの、本質的に先発完投型の投手を理想としていた。このことを1983年に指摘したのは故豊田泰光氏だった。当初江夏の後継の救援投手として起用していた大野豊を後楽園球場での読売戦に先発させて大野が完封勝ちしたあたりから、古葉監督時代の後期黄金期が始まったという印象がある。この年のカープは、夏場に山本浩二と衣笠の両ベテランが不振に陥ったために読売に競り負けたが、序盤で10ゲーム以上差をつけられた読売を一時は逆転して首位に立ったのだった。

 古葉監督時代のカープを概観すると、1975年の初優勝のあとはしばらく低迷したが、ヤクルトが優勝した1978年の後半にかなり追い上げて3位につけたあたりから前期黄金期が始まり、1979年と1980年に2年連続日本一になった。その頃には打線のチームだったが、1982年にBクラスに落ちて翌83年の出足も悪かったあと、強力な先発投手陣に頼る投手力のチームとして後期黄金期を迎えた。

 このあたりの推移は、2004年から11年の8年間に4度のリーグ優勝、5度の日本シリーズ進出、1度の日本一の成績を残した中日の落合博満監督時代とやや似ている。中日も2004年や2006年には打撃陣も投手陣も強かったが、2010年と2011年の連覇の頃は投手力に頼っていた。そして、80年代半ばの広島や10年代初頭の中日のような守りのチームにおいては、監督の采配がチームの成績を大きく左右する。その点では古葉竹識は文句なしの名将だった。監督の采配がダメでも勝てる打撃のチームの時にしか優勝できなかった長嶋茂雄とは大きく違うところだ。

 その点では私は昔から古葉監督を買っていたが、鉄拳制裁はいただけなかったし、後期黄金時代のカープ自慢の投手陣にしても、同時期の藤田元司監督時代の読売についても言えるが、あまりに先発完投にこだわるのはどうかと思った。山根和夫のように活躍が長く続かなかった投手もいた。古葉カープや藤田ジャイアンツとは対照的に古くから投手の分業制を導入していたのは中日だったが、どう考えても中日の方が合理的だよなとは当時から思っていた。現在では分業制がスタンダードとして定着している。

 結局古葉竹識は「あの時代の名将」に過ぎなかったんだなと思う。そして、カープでは成功したけれどもホエールズでは大失敗した。3年目の1989年に読売戦6勝20敗だったかで歯が立たないなどの大不振で最下位に落ちた。その上10月には、本拠地の横浜スタジアム遠藤一彦が先発した試合だったのに、読売ファンのウェーブが一周したあげくに読売の胴上げを見せつけられる屈辱を受けた。この試合を中継したフジテレビのアナウンサーは読売の優勝に浮かれていたが、解説の平松政次が怒りの声を震わせていたことが忘れられない。これが古葉竹識の監督としての終わり方だった。限界を露呈しての監督生活の幕引きという印象がある。なお森祇晶も2002年のベイスターズ監督最後の年は最下位に終わっている。

 古葉の場合、監督を辞めたあとの印象も悪い。2003年の広島市長選に出馬して大敗したあと、翌2004年には参院選比例区自民党公認で立候補したが落選している。

 確かに名将ではあったが、いろいろと留保がつく人だった。