kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

南海ホークスのファンだった「武田泰淳」氏

 タイトルは釣りで、1976年に亡くなった作家とは何の関係もない。ネット検索でみつけたオリックスに関するスポーツ紙のコラムを読んでいたら、記事の末尾の署名を見てぶっ飛んだ次第。

 

hochi.news

 

 以下、記事の末尾を引用する。

 

 かつて近鉄を担当していた記者にとっては、04年9月27日のシーズン最終戦(当時ヤフーBB)が記憶に焼き付いている。近鉄オリックス、翌年から統合される両球団が最後に顔を合わせた。試合には負けたが、梨田昌孝監督が胴上げされ、神戸の夜空を舞った。その輪には相手チームから吉井、大島ら元近鉄戦士も加わっていた。近鉄バファローズ、オリックスブルーウェーブの終わりと、新球団・オリックスバファローズの始まりの瞬間だった。何とも言えない気分でグラウンドを見つめていた。

 その後は分配ドラフト、チームの愛称、本拠地…。ファン心理からすると、様々な面で一体になれない時期が続いただろう。余談だが、記者も子供の頃は南海ホークスのファンで、応援する球団がなくなった経験がある。ストライキにまで発展した球団統合から17年。ファンだけでなく、世間の人々がオリックスの勝ち負けに一喜一憂している光景は、素直にうれしい。(記者コラム・武田泰淳

 

出典:https://hochi.news/articles/20211126-OHT1T51134.html?page=1

 

 武田泰淳記者は(にっくき)読売系のスポーツ報知の記者だが、南海ホークスのファンだったようだ。Twitterアカウントを参照すると、氏は1994年に報知新聞社に入社したとのこと。

 

twitter.com

 

 大卒で浪人・留年がなく、早生まれでもないと仮定した場合、武田記者は1971年生まれと推測される。作家・武田泰淳の晩年に生まれているから、ご両親の少なくとのどちらかは泰淳の大ファンだったに違いない。昨年のコロナ禍初期の頃に武田泰淳の妻・百合子が書いた『富士日記』を読んだが、泰淳といえば酒と煙草ばかりの人という印象だ。しかし作家と同じ名前をもらった子どもはスポーツ好きの少年に育ち、南海ホークスを応援していた。グリーンスタジアム神戸の公式戦のこけら落としは確か1988年の阪急対南海戦(当時の阪急の本拠地は西宮球場)で、阪急が勝ったと記憶する。南海球団が身売りしたのは同じ1988年であり、泰淳記者が高校生の頃だろう。当時の南海はお荷物球団で、泰淳記者は1973年のリーグ優勝はもちろん、南海が野村克也を追い出した1977年の2位も記憶にあるまい。ホークスは翌1978年からダイエー時代9年目の1997年まで20年連続Bクラスを記録した。阪神の「暗黒時代」はおろか、昔の国鉄(現ヤクルト)や大洋(現DeNA)よりもひどいのではないかと思われる長期低迷だったが、ダイエー時代から現在のソフトバンク時代に「金権球団」と化した結果、一転して1998年以降は上位の常連となり、2014年から20年まで黄金時代を築いた。

 両「武田泰淳」氏は「姓名判断」がいかにあてにならないかの典型例だろうなと思ったが、作家の武田泰淳の出生名は「覚(さとる)」だったらしい。