kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ヴァイオリニスト・辻久子の死(7月)に触れておく/衆院選での「野党共闘」敗北を契機に一気に反動の奔流が噴き出した2021年だったが

 今年563件目にして最後の記事を書こうと思ってブログ管理画面の「下書き」を見ると、7月にヴァイオリニスト・辻久子の訃報記事を書き始めて中断していたのだった。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

(この箇所に前振りの文章がいったん書かれていたようだが消去されていた=12/31註)

 

 だが、上記ブログ記事から引用された共同通信の訃報記事*1に、

73年に自宅を売って名器ストラディバリウスを3500万円で購入、話題を集めた。

と書かれていたのを見て、そうか、それで覚えていたのかと思い当たった。

 当時はクラシック音楽を聞くようになる前だったが、「名器ストラディバリウス」の名前は、子ども向けにリライトされたシャーロック・ホームズの全集(偕成社版)を全部読んでいたので知っていた。そして辻さんが売った自宅は兵庫県西宮市甲子園にあったのだった。そこまでは覚えていなかったがネット検索で知った。当時の私の地元エリアであり、1973年の甲子園といえば夏休みの大雨の日に作新学院江川卓がサヨナラ負けした試合をスタンドで終わり近くまで(!)見ていたのだった。試合終了まで見なかったのは延長戦でいつ終わるかわからないのに雨があまりに激しくなったのに音を上げたからだった。その試合のあった日と辻さんが自宅を売って引き払った日のどちらが速かったかは知らない。

 

 ここまで書いて記事は中断していた。サンデーモーニングで日曜日に流された今年の訃報にも、亡くなったばかりの神田沙也加は出てきたが辻久子が出てきたかどうか。少なくとも記憶にはないので、年末に取り上げておこうと思った。私自身は甲子園に住んでいたわけではないが、甲子園というと思い出すのはどうしてもこの球場に何度も行った少年時代だ。

 歳のせいか少年時代を思い出すことが増えた。ヤクルトの日本シリーズ優勝にしても、相手がオリックスだったせいか阪急ブレーブスと争った1978年が思い出されてしまう。1995年ではなく。実は私の家は甲子園よりも西宮球場の方が近かったが、一度も行ったことはない。甲子園には主に高校野球を見に何度も行っていたのに。

 ヴァイオリンについては、ストラディバリウスがいくら名器でも、モーツァルトはもちろん、ベートーヴェンソナタの演奏であってもピリオド楽器でやった方がずっと面白いと最近思うようになった。年末にちょっとマルタ・アルゲリッチのピアノ演奏を聴き込んだが、ある時期から室内楽を多くやるようになったアルゲリッチギドン・クレーメルと組んだベートーヴェンのヴァイオリンソナタを20年ぶりくらいに聴き返してみたら、私はクレーメルは苦手なのにアルゲリッチのおかげで結構面白かった。でも、2010年にヴィクトリア・ムローヴァピリオド楽器を使って古いピアノを使った演奏者と組んで「クロイツェル・ソナタ」を含むベートーヴェンソナタ2曲を入れたCDもついでに聴き直したら、そちらの方がずっと面白かったのだ。ネット検索をかけると、ムローヴァは今年になって別のピアニストと組んだベートーヴェンのヴァイオリンソナタ集の第2集を発売していたので、今年初めてレコード屋に行ってCDを買った。それも悪くはなかったが、このジャンルのベートーヴェンの曲ではなんといっても「クロイツェル」が断トツなので、1枚目と同じほど満足したところまでは行かなかった。しかし筋肉隆々のムローヴァは60歳を過ぎているとは思えない演奏ぶりで、演奏家のスタイルも昔とはずいぶん変わったなと思った。しかしクラシックはジャズともどもファン層は先細りの一途で、渋谷のタワーレコードでもクラシックとジャズは同じフロアで、久し振りに行ったらさらに他のジャンルも進出していた。CDを買って聴くという文化自体が廃れつつあるようだ。

 気候変動で地球全体が危機にあることを痛感させられる今日この頃だが、その中でも日本は急速に没落を続けている。

 こういう時に一番やってはいけないのが旧体制にしがみつく選択だが、10月31日に行われた衆院選で、日本国民はそれをやってしまった。悪いことに小選挙区制が勝敗をデフォルメしてしまったために「野党共闘=間違い」という固定観念が短期間のうちに出来上がってしまい、玉木雄一郎のような「軽い」人間たちがさっそくその流れに乗って踊っている。

 野党共闘には少なくないが、衆院選小選挙区の他、参院選の一人区でも「やらなければ野党は勝てない」戦術だ。つまりこれをやるしか手がない。普通に「共闘」したのでは1足す1は1.5くらいにしかならないが、2016年参院選での「野党共闘」は選挙区によっては1足す1が2を超える結果を出した。私などもそれをきっかけに「野党共闘」に対する意見と立場を変えたものだ。

 しかし今年の衆院選での「野党共闘」では多くの選挙区でそうはならなかった。例外的にうまく行った東京8区の例もあるが、あれは山本太郎及び山本とつるんだとみられる立民の手塚仁雄による「横紙破り」ともいえる工作があったために、それに対して吉田晴美陣営が団結し、有権者も同陣営に共感したためだ。2017年に「希望の党」騒動から弾き出された人たちが結成した旧立民が票を集めたのと似た機構による。

 東京8区以外の多くの選挙区ではそういうわけにはいかなかった。それで土壇場での自民党の逆襲を許した。アーリーアダプターの人々が現在持っている危機感を共有する割合はまださほど大きくなっていないと思われるから、投票率が上がるとかえって自民党に有利になるのではないかと私などは考えている。麻生太郎が平気で「地球温暖化のおかげで北海道の米がおいしくなった」と発言したり、岸田文雄も麻生ほど露骨なことは言わないまでもほぼ麻生と同趣旨のことを言っているにもかかわらず、支持率が衆院選後にむしろ上がっていることが、この国に住む人々の危機感が薄いことをよく示している。本当は現在のように縮みつつある社会に求められるのは、「野党共闘」にとどまらない、リベラルよりもラジカルを指向する方向性だと私は思うが、現時点の日本はそれとは全く逆の方向性を持つ流れに支配されているように見える。

 来年の参院選はどうなるだろうか。正直言って明るい展望はあまり持てない。衆院選前には「今は衆院選民主党が伸びた2003年よりも政権交代が起きた2009年に似ている」とツイートしていた「ツイッター政治おじいちゃん」氏も、下記の悲観的なツイートを出すに至った。

 

 

 来年の改選分は、その2013年ではなく2016年に一人区での「野党共闘」が主に東北で予想をはるかに上回る効果を出した分が改選される。

 

 

 立民支持層の中では最左派と思われる神子島慶洋氏だから上記のようなツイートになるが、氏のツイートからリンクされたのと同じ内容の下記朝日新聞デジタルの記事には、気になるブコメがついていた。

 

www.asahi.com

 

共産、参院選1人区擁立開始 国民民主に疑念「共闘の意思あるのか」:朝日新聞デジタル

国民民主党共産党と共闘の意思なんてあるわけない。世論調査立憲民主党と共産の共闘が失敗だと思われてるのに尚更。なぜ「意思はあるのか」と上から目線で言えるのか分からない。

2021/12/29 06:44

b.hatena.ne.jp

 

 このブコメは、朝日新聞デジタルの記事中の下記の文章を受けたものだ。

 

 一方、小池氏は日本維新の会都民ファーストの会との連携を模索する国民民主党について、「憲法審査会で審議を促進するような役割を果たしつつある。そもそも、わが党と共闘する意思があるんだろうかということについては、疑問に持たざるを得ないような面もある」と指摘。「(候補者一本化の)対象になるか、慎重に見極めていきたい」と述べた。

 

朝日新聞デジタルより)

 

出典:https://www.asahi.com/articles/ASPDW6J7FPDWUTFK00V.html

 

 つまりブコメ主は小池晃の発言に反発し、国民民主党(民民)の肩を持っているわけだ。私はもちろんこんなブコメには強く反発するが、有権者全体を見れば私の意見よりもブコメ主を支持する意見の方が多いのではないか。衆院選によって作られた惰性力がそのような働き方をしているということだ。

 それに対して、上記ブコメを「反共宣伝」と片付けるのは簡単だが、そう片付けたところで参院選に勝てるようになるわけではない。ここで求められるのは立民ともども共産党の知恵だ。しかし立民にしても共産にしても、良い知恵を出し合っているようには私には見えない。もっと言えば、立民・共産の双方に問題を感じる。

 一方、マスメディアを見渡すと、スポーツ報知やデイリースポーツといった読売や阪神系の媒体が猛毒を撒き散らしている。もちろんヤクルトも産経との関係自体が深いから同罪ではあるが、報知の場合はネットでは読売のサイトから発信されるので特に悪質だ。

 

 

 問題の気色悪い記事は、さすがに読売本体ではなく報知の記事だが、読売のサイトから発信されているから読売による維新の宣伝だと受け取られている。そもそも読売にはそう受け取られても仕方ない一件があった。

 下記はその件について立岩陽一郎氏が書いた記事へのリンク。

 

news.yahoo.co.jp

 

 以下に記事の結論の部分を引用する。

 

問われるジャーナリズムの役割

 

この包括協定とは何か。大阪府によると、これまで40社余の企業と包括協定を結んでいる。以下がその一部だ。

 

(リンクを省略=引用者註)

 

このうちメディアとしてはFMラジオ局が1社入っているが、行政監視が求められる報道機関としては読売新聞が初めてとなる。この一覧に読売新聞が入ることに、読売新聞の記者は違和感を覚えないのだろうか?

 

記者時代の柴田社長を知っていると書いた。確かに、柴田記者は忖度するようなやわな記者ではない。しかし、そういう問題ではない。柴田社長も吉村知事も「やわ」ではないと強調した。私はそうした個人の資質に対応を求める点にこそ問題が有ると感じる。

 

逆に、こうとも言える。報道機関を骨抜きにする力も「やわ」ではない。しかも、狡猾だ。

 

加えて、ことは読売新聞だけの話ではない。既にジャーナリストの有志がこの協定に反対する声を出し始めている。

 

ジャーナリズムと権力との距離が世界的に問われている。今年のノーベル平和賞の受賞者の2人が何れもジャーナリストだったことはその象徴だ。こうした中で日本を代表する新聞社が、監視対象である巨大行政機関と提携するという動きは、世界から見ればジャーナリズムの自殺にも等しい行為に見えはしないか?

 

私は東日本大震災の時、アメリカにいた。その時、日本で取材して帰国したアメリカのジャーナリストが口々に、「日本の記者は政府の記者会見でも、TEPCO(東電)の記者会見でも質問をしない。ひたすらパソコンを叩いていた」と発するのを耳にして悔しい思いをした。「日本の報道機関は政府にやさしい」と新聞に書かれたこともある。

 

柴田社長に言いたい。この協定は、そうした印象を更に強めるものになる。それは日本の報道機関の信用の低下にもつながるだろう。会見で何度も聞かれた「当然」という言葉を使うならば、当然、それは日本のジャーナリズムにとって良いことではない。

 

出典:https://news.yahoo.co.jp/byline/tateiwayoichiro/20211228-00274722

 

 21年前に読んだ魚住昭の名著『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社)が思い出される。刊行3年後の2003年に講談社文庫入りしたのでそちらへのリンクを張るが、今でも増刷されているかどうかは知らない。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 リンクには「魚住昭佐野眞一」とあるが、本文はすべて魚住が書いている。佐野はおそらく巻末で解説を書いているだけだろう。おそらく、というのは私はハードカバー版を買って読んだからだ。

 この中で魚住は、渡邉恒雄ナベツネ)が権力と一体となった新聞を目指すと言ったと書いていたはずだ。しかし現在では読売社内でのナベツネの影響力は薄れているという。それもそのはず、ナベツネはもう95歳だ。

 しかし現在の読売においては、ナベツネがかつて抱いた野望を、ナベツネよりはるかに資質の劣る者たちが受け継いで、ナベツネが目指したであろう姿を大きく劣化させながら社を率いているのだろう。

 その行き着いた先が、維新府政との公然たる癒着であるに違いない。

 「維新と新聞」については弊ブログで最近「朝日新聞の維新化」について書いた。毎日新聞その他も、朝日に先駆けて既に十分「維新化」が進んでいるのではないか。

 10月の衆院選で、そんな日本での悪い流れを食い止めてきたものが一気に吹っ飛んで、おぞましい「反動の奔流」と化してこの国に住む人々に襲いかかっていると思われてならない昨今だ。

 

 以上悲観的なことばかり書いたが、せめてもの抵抗を込めて今年の弊ブログをこの563件目のエントリで締めくくりたい。「せめてもの抵抗」と書く理由は「563」という数字にある。昨年の記事数は567件であり、奇しくも「コロナ」だった。新規陽性者数や死亡者数からいえば、昨年よりも今年の方がもっと「コロナ」の年だったが、12月に入ってブログをあまり更新できなくなったので、567件より少なくなることが確実になった。そこで、何件目で締めようかと思って避けたい数字を考えると、まず「564」は「殺し」に通じるから絶対ダメで、「562」はコロニー、すなわち植民地みたいだからこれもダメ。それなら「563」はどうか。「殺さん」に通じるし、「567」(コロナ)には「死」が足りない。これなら良いのではないかと思った次第。本当は「殺さん」より「殺させん」の方が良いのだが、それだと「5631000」になってしまうので、「563」で代用することにした。そういえば少し前に三春充希氏のツイートで知ったが、2022年を三進法で表すと「2202220」なんだってね。

 

 

 

 

 三進法で表した「2202220」という7桁の数字に「2022」が含まれている。いったい誰が気づいたんだよ、そんなこと。

 そんなわけで、嫌な世の中になったものだとは思うけれども、今年は(今年も?)下記の言葉で締めくくりたい。

 それでは皆様、良いお年をお迎え下さい。