kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

田口富久治氏死去 〜 1970年代に不破哲三と「民主集中制」をめぐって激論を交わした人

 田口富久治の名前は、少し前の5月23日に読み終えた立花隆の『日本共産党の研究』(講談社文庫1983, 全3冊)で知ったばかりだった。

 名前でネット検索をかけても、読売*1や朝日といった大手新聞社の記事は引っかからない。地方紙には載っている。下記の熊本日日新聞記事に明記されている通り、共同通信が配信した。

 

田口富久治氏死去

名古屋大名誉教授

共同通信 | 06月08日 16:33

 

 田口 富久治氏(たぐち・ふくじ=名古屋大名誉教授、政治学)5月23日午前5時8分、老衰のため愛知県日進市の病院で死去、91歳。秋田市出身。葬儀・告別式は親族で行った。喪主は妻道代(みちよ)さん。

 東京大を卒業後、明治大、名古屋大、立命館大などで教授を務めた。マルクス主義の立場から政治を分析。著書に「社会集団の政治機能」「現代資本主義国家」など。

 

熊本日日新聞より)

 

出典:https://kumanichi.com/articles/684339

 

 田口が亡くなった5月23日は、奇しくも私が立花本を読み終えた日だった。田口の名前は、1970年代に民主集中制を批判して共産党執行部と論戦を交わした人として言及されていたはずだが、立花本は戦前の共産党史を批判的に扱った本だから、戦後の事項については序章のほかは「話のついでに」出てくるに過ぎない。しかも、立花本の巻末には膨大なリファレンスが記載されているにもかかわらず、索引がないという大きな欠点がある。だから、本のどの箇所に田口への言及があったかは確認できなかった。

 しかし、こたつぬこ(木下ちがや)氏のツイートによると、やはり田口の命日である5月23日に中公新書から発刊された中北浩爾著『日本共産党 - 「革命」を夢見た100年』に田口への言及があるらしい。

 

 

 『日本共産党』は5月25日に買ったがまだ読んでいない。

 

www.chuko.co.jp

 

 中北『日本共産党』にも索引はついていないが、巻末の註記から田口の論文や著書への言及がたどれる*2。第4章「停滞と孤立からの脱却を求めて――1980年代〜現代」に言及されていることを確認したので、中北本をまだ全然読んでいないにもかかわらず以下に引用する。訃報が報じられたタイミングを考慮してあえて速報性を重視する次第。読者のご寛恕をお願いしたい。

 

(前略)なかでも立花論文が問題にした分派の禁止を伴う民主集中制は、共産党のアキレス腱であった。いくら共産党が国家や社会について自由を承認しても、党内民主主義が存在しなければ、権力を掌握した場合、独裁体制に転化してしまうのではないかという疑問である。

 こうした批判を受けて、党内やその周辺からも民主集中制を問い直す意見が出てくる。田口富久治名古屋大学教授)は1977年*3の論文「先進国革命と前衛党組織論」などで、分派の禁止には賛成しつつも、その代わりに少数意見の尊重など党内民主主義を保障しなければならないと説き、それなしには先進国では国民の納得は得られず、多数派革命は実現できないと主張した*4

 

(中北浩爾『日本共産党 - 「革命」を夢見た100年』(中公新書,2022)282頁)

 

 また、1977年末の袴田里見除名を受けた共産党の党内統制に絡めても、田口に対する下記の記述がある。

 

 党指導部は民主集中制の組織原則を確認することで党内統制を強め。1978年に田口富久治の著書『先進国革命と多元的社会主義』が刊行されると、不破書記局長が「反共派の論難に事実上同調するもの」と批判を加えた。支配階級を打倒して革命を実現するためには党の団結と統一が不可欠であり、科学的社会主義の世界観の真理性ゆえに党内に多元主義は必要ないというのが、不破が民主集中制を擁護した主な理由であった。

 これを受けて機関紙『前衛』で田口・不破論争が展開される。しかし、田口によると、国民の多数の支持を得て先進国革命を実現するためには党内民主主義を保障しなければならないという論点については議論が深まらず、マルクス・レーニン主義の解釈をめぐって争われたため、異端視されて終わる*5。この時点ではユーロコミュニズムを含め、複数政党制や政権交代といった多元主義を党内に適用するまでの理論的刷新はなされなかった。

 

(中北浩爾『日本共産党 - 「革命」を夢見た100年』(中公新書,2022)284頁)

 

 なお、弊ブログまたは読書ブログの下記記事において、現在共産党内で民主集中制について議論されているかのような誤解を与えてしまったようだが、筆者にはその意図はなかった。共産党の周辺から民主集中制を問いなおす議論が起きつつあるとの心証を筆者は持っており、それを表現しようと思ったものだ。共産党内で民主集中制の議論は、少なくとも外部に認められる形ではまだ起きていないと私は認識している。

 しかし、共産党が今なお民主集中制を維持しているにもかかわらず、志位和夫委員長が2019年に、かつて分派認定された「日本共産党(左派)」と深い関係を持つ長周新聞社に熱烈に応援されている山本太郎と「野党連合政権での協力合意」を確認したのは、どこか変なのではないかと当時から思っていた。

 共産党ではまだしも1970年代末の段階で既に『前衛』で田口富久治と不破哲三が論争するなど、「深まらなかった」にせよ議論はなされていた。

 しかし(元号を党名に冠した)山本太郎の党では、党代表が「山本太郎を疑え」と言ったことを錦の御旗として、あたかも党内民主主義が十分に機能していて党内での議論を執行部が十分に吸い上げているかのような喧伝が支持者によってなされているが、実態は理想とはかけ離れており、山本の恣意のまま、程度の低い陰謀論に立脚した街宣及びそれを支持者や「信者」がネットで垂れ流す惨憺たる状態であることが徐々に知られるようになってきた。

 コメント欄で、山本太郎だけではなく周辺に対する批判もしろとの注文を受けているので、そのコメントからリンクされた「ツイッター政治おじいちゃんお化け」氏のツイートへのリンクを下記に示す。

 

 

 元右翼の雨宮処凛、現右翼の中島岳志、「レーニン主義者」を自称しながらトンデモ右翼本としか思えない稀代の悪書『国体論』を書いた白井聡、それに昔から一貫してずっと胡散臭い内田樹が代表的な面々ですか。申し訳ありませんが、いまさら元気に叩こうという気力が起きません。彼らにはもうとっくの昔に「お腹いっぱい」ですな。

 時間がきたので尻切れトンボになるが、この国に住む人々の知恵を全て結集してそれを総合するくらいのことをせずして、今後のこの国に待ち構える困難を乗り越えることなどできないと私は確信しているので、それこそロアール・アムンセン的な知力とマネジメントの方法論で南極ならぬ難局に立ち向かうしかないと考える。

 その観点から、共産党民主集中制はもはや限界に達しているのではないかとの心証を私は持っている。また、トンデモ陰謀論に支配された山本太郎の独裁政党に至っては論外であって、選挙によって可及的速やかに国政から退場願うしかないと思う今日この頃である。

*1:読売を筆頭に持ってきて毎日を省いた理由は、発行部数の多寡である。間違っても読売が「良い新聞」だからではない。関係ないが、プロ野球交流戦でヤクルトと読売の差が広がりつつあることには少しばかり溜飲を下げている(笑)

*2:立花本には「参考資料一覧」が載っているが、本文の箇所と紐付されていない。ざっと見たが、田口の著書や論文は見当たらなかった。しかしこれは私が見落としたものかもしれない。

*3:本書では年数表記は漢数字の「一九七七年」(以下同様)=引用者註。

*4:田口富久治「先進国革命と前衛的組織論―「民主集中制」の組織原則を中心に」(『現代と思想』第29号, 1977年)=原註。

*5:原註に、田口及び不破の論文その他のリファレンスが多数挙げられているが、文献の数が多いため、ブログ記事を書く時間的制約の都合により引用を省略する。