俗説の嘘には困ったものだ。
「反対するのは簡単」だとか「批判は誰にでもできる」のような浅薄な意見を訳知り顔で語る人がよくいるけれど、「反対」にせよ「批判」にせよ、少なくともそこには主体的判断があるよね。対して「傍観」や「冷笑」の類に、何らかの主体性があるか?
— ワイド師匠 (@feedback515) 2022年6月7日
まず、「反対するのは簡単」とか「批判は誰にでもできる」などという俗説を疑うところから始めなければならない。
これらの俗説はいうまでもなく嘘八百だ。
賛成する方が反対するよりもはるかに容易である。
10人の集団があったとして9人前までが賛成している時、反対意見を表明するのに勇気が必要なことは誰でも知っている。半世紀以上前の小学校2年生の時に国語の授業で担任の教師がやっていたことを今でも覚えているが、確か授業参観日に行われた児童によるディスカッションで、教師はわざと不自然な選択肢をするように誘導し、ある児童が手を挙げて、その選択肢を支持する意見を言う。すると、それに対する賛成意見が次々に発せられる。その選択肢はどう考えても間違っているのだが、誰も異論を発さない。手前味噌になるが、誰も言わないので仕方がないから私が手を挙げて反対意見を発した。もちろん理屈の上ではそちらが正しいに決まっているから、ひとたびその意見を出しさえすれば、最初は1人だけだった反対意見が次第に支持されて多数派となり、最後に教師が後者を支持するまとめを行った。おそらく私が反対意見を出さなければ、教師が「こういう考え方もありませんか」と反対意見の例を出し、最後にはそれが多数派になるように誘導したに違いない。
当時8歳の少年でも、みんなの意見に逆らって反対意見を表明するのには勇気が言った。それは大人でも変わりないし、「去年衆院選に当選したばかりの人が議員辞職してまた参議院選挙に出るなんておかしいんじゃないか」という当然の意見も、周りがそんなことを誰も言わないばかりか、この劇場政治志向のアジテーターを擁護する人間ばかりしかおらず、マスメディアの多くも彼の行動をもてはやしている場合、なかなか言い出せない。
しかし、周りで政治のことなどあまり話題にならない12歳の中学生や、仕事を終えて飲み屋で若い同僚と一杯やっている年配の労働者にはそのような同調圧力はかからないから、劇場型アジテーター氏をいとも簡単に批判できる。
いや、別に山本太郎に限った話ではない。
衆院選で自らが属する野党が負けたから、流れに身を任せて「提案型野党」を目指してみたら、競合する他の野党はもっと過激に自民党との連立を露骨に目指したり、かと思えば「逆張り」を気取って維新と同じ選択肢を選んだりする(あ、また山本太郎の話に戻ってしまったw)。
しかも、党内からは(実は安易極まりない道である)「提案型」に対する反感が強まってきている。それで、急に対決路線を打ち出そうとしたがうまくいかない。これが現在の泉健太の姿だろう。
先にこの「提案型」の新リーダーに負けた方も負けた方で、しゅんとして新リーダーに何も言えずにいると思っていたら、いきなり徒党を組んで「次の衆院選はかつてのリーダーのもとで戦うべきだ」などと声を合わせて悦に入る始末だ。
私は泉など全く支持しないが、彼が用意周到に党内の実権を握るべく動いていた(=党内で工作を重ねていた)間、枝野体制に安住していたサンクチュアリの連中はいったい何をしていたのだろうか。なぜ「ポスト枝野」の準備をしておかなかったのか。いつまでも枝野幸男が代表で居続けるはずもないことなどわかり切っていたはずなのに。党内右派は「希望の党」騒動の負い目があるはずだから、などと甘く見ていたとしか思えない。
最近はどの党でも代表選(自民党では総裁選)が終わると同時に議論がパタッと止んで、普段からの相互批判は行われない「批判なき政治」(笑)がどの政党でも定着してきたように思われる。新選組(や維新)は極端な例だとしても、どの党でも党首や執行部、あるいは安倍晋三に代表される黒幕の独裁あるいは寡頭体制ばかりが目立つ。
百害あって一利なしの傾向だというほかない。
なお、冒頭の「反対するのは簡単」等の俗説に対しては、「賛成するのは簡単」という正論を繰り返し唱えるしかない。嘘は百回言えば真実になるのに対し、真実は百回言っても(当たり前すぎるからかどうかはわからないが)信じてもらえないという困難がある。
でも仕方がない。真実は曲げられない。