kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

プロ野球元中日の山本昌は自らの成績やチーム内の出来事について西暦の年数がすぐに思い出せる記憶力の持ち主

 この記事はプロ野球に関する暇ネタ。

 少し前にプロ野球中日ドラゴンズ山本昌と岩瀬が元監督の星野仙一落合博満について論じるYouTubeを見た(全部ではなく一部)。

 

www.youtube.com

 

 少し前から気づいていたのだが、山本昌という人は結構記憶力が良くて、記憶がアバウトな川上憲伸とは強い対象をなしている。特に何年のことだったかという年数を実によく覚えており、それが西暦でさらっと出てくる。

 たとえば、上記リンクの動画だったかと思うが、開幕から打撃不振だった落合が東京ドームでの読売戦に負けたあと監督の星野仙一から叱責されたのを「89年だったかな」と、あやふやそうな口ぶりながら正確に指摘していた。「星野竜」がナゴヤ球場でのスワローズ戦でリーグ優勝を決めやがったのは忘れもしない1988年であり、翌年の中日は下馬評が滅法高くオープン戦でも無敵だったのが、開幕直後から大不振に陥ったのだった。

 その1989年といえば「平成元年」であり、当時の人々はまだ西暦よりも元号を主に用いていた。しかし山本はその年をさらっと「89年」と言える人だ。それは山本が初勝利を挙げたのが前年の1988年(昭和63年)であり、その年に挙げた5勝以外はすべて「平成」の年号の期間だったことと関係しているだろう。「平成」は「昭和」との年数の差を計算するのが面倒なために西暦が急激に普及した時期だった。中日新聞中日スポーツも昭和時代には年数を元号で表記していたに違いないが、平成に入って西暦で表記するようになったのだろう。だから山本は自らの成績やチーム内の出来事を西暦で覚えているのに違いない。「星野竜」が二度目に優勝した年も「99年」とパッと出てきた。気に食わないのは山本がずいぶん星野仙一星野仙一に心酔していたフシがあることだが、あのガタイの良さだから星野の暴力もあまりこたえなかったのかもしれない。上記リンクとは別にテレビで山本を見た時には、自身の全盛期を「93年、94年」と正確に言っていた。このように年数がすぐに思い出せるプロ野球選手は他の例があまり思い浮かばない。

 岩瀬仁紀は入団早々の1999年に星野仙一に取り立てられて大活躍した人だが、活躍期の中心は落合博満監督時代だったので、落合時代には隔年でしか活躍できなかった山本昌が主に星野について語れば、岩瀬は主に落合について語る形だった。しかし岩瀬はクールな人なので、特に落合に思い入れがあるわけでもないようだ。

 彼らが活躍していた頃が中日の黄金時代だった。スワローズも彼らには長年痛い目に遭い続けた。山本昌がもっとも多くの勝ち星をあげたのは阪神戦だったはずだが、勝率がもっとも高かったのはヤクルト戦ではなかっただろうか。なにしろヤクルト打線が最強だった1993年に山本はヤクルト戦で負けなしの7連勝を記録した天敵だった。読売の斎藤雅樹にも苦しめられたが、その斎藤と並ぶスワローズの二大天敵の感があった。中日では今中慎二も手強かったが、今中は接戦でしばしば隙を見せた。たとえば1993年に彼が16奪三振セ・リーグタイ記録*1を達成した試合では、ヤクルト打線が終盤に同点に追いつき、今中には勝ちがつかなかった(試合は中日の救援投手を打ったヤクルトが勝った)。山本は大差の試合には手抜きしてしばしば打ち込まれるが、接戦になるとしぶとい投手だった。球は速くないが、球筋が汚くて球が揺れるために打ちにくかったらしい*2。ガタイの良さと記憶力も彼の有力な武器だったかもしれない。

*1:その少し前に伊藤智仁が読売戦で記録したのと同じ数字。その直後に伊藤が篠塚にサヨナラ本塁打を浴びたあの試合だ。今調べてみると伊藤が6月9日、今中が7月6日だった。同じ年の9月10日にはヤクルトの山田勉も記録している。その後1994年に読売の桑田真澄、2001年に中日の野口茂樹が記録し、伊藤智仁以前に達成していた金田正一江夏豊外木場義郎を含む8人が今もタイ記録で並んでいる。なおパ・リーグ野田浩司(1995年)と佐々木朗希(2022年)の19奪三振(佐々木の記録は完全試合を達成した試合)を最高に、足立光宏野茂英雄田中将大を含む延べ6人(野田は2度記録)が17奪三振以上を記録している。https://2689web.com/history/s-pso.html

*2:今年アスレチックス入りした元阪神藤浪晋太郎もそういういうクセ球の持ち主らしい。2013年の開幕第3戦でプロ入り初登板の藤浪と対戦したスワローズの打者たちが言っていた。