kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

"「小さな政府」「官から民へ」というような新自由主義すら終わり" という平河エリの謎認定

 平河エリの下記Xはやや、というよりかなり欺瞞的だ。

 

 

 平河は「小さな政府」「官から民へ」という、ミルトン・フリードマンの思想を「新自由主義」とみなしているようだが、(玉木雄一郎のような)エリートによる権力回復のプロジェクトとしてみれば、より獰猛な「支配者が何をしても許される」究極の新自由主義が支持されるようになっているといえる。

 確かにそこには「小さな政府」の縛りすらない。玉木自身は否定しているが明らかに前提としているのは「日本版MMT」の思想であって、本家のアメリカでは左派の経済思想であるというこの「理論」が日本ではむしろ右派や極右に大人気だ。彼らがやりたいのは大規模な軍事増強と原発の新増設であって、再分配はむしろ積極的に否定している。だから役職を停止中のはずの党首が「税金を使う側ではなく税金を払う側に立つ」と言い、この独裁者の支持者たちは「税金を取って配るなら最初から取るな」と囃し立てる。そのくせ「積極財政」を看板の一つとして、原発の新増設を政府に求めるという滅茶苦茶な政策を掲げているのが今の国民民主党(民民)だ。

 これは、私には「より尖鋭化した新自由主義」だとしか思えないのだが、平河はなぜか「新自由主義すら終わり」と言い立てる。腹が立って仕方がない。この人、大濱崎なんとかという人とつるむようになってすっかりおかしくなったのではないかと思う。

 下記黒川滋氏のXの方がよほどまっとうだろう。

 

 

 

 

 玉木雄一郎と玉キッズは「夜警国家」を目指す極悪な政治勢力以外の何者でもない。こんな玉木を「積極財政論者」として甘やかしに甘やかした一部の「リベラル・左派」にも本当に腹が立つ。

 

 

 平河はこんなことも書いている。

 

 

 自分だけ給付が減らされずに維持することなどあり得ないから、この「要求」は要するに「給付も負担も減らせ」ということだ。つまり「もっと小さな政府を」と言っているわけだ。そんなことは当たり前だろう。それをなぜ平河は「小さな政府か大きな政府か」という議論がなくなったかのような虚言を垂れ流すのだろうか。不思議でならない。民民や玉木雄一郎や玉キッズたちは、自公にとどまらず維新までをも突き抜けた最悪というか究極の新自由主義勢力だとストレートに認識しなければならない。彼らは社会を「万人の万人に対する闘い」の状態に戻そうとしているとしか私には思われない。

 むしゃくしゃして書き続ける気が失せてきたのでこれで止めておく。