昨日(2/19)もいろんなニュースがあったが、もっとも衝撃を受けたのが「つば九郎死去」だった。厳密にはプロ野球・ヤクルトスワローズのマスコット「つば九郎」の中の人が病死したのだが、噂によれば50代の男性だったという。
球団からのお知らせ
2025 2/19
これまで、つば九郎を支えてきた社員スタッフが永眠いたしました。
球団マスコットとして、ここまで育ててくれた功績に感謝と敬意を表します。
体調不良の発表以来、温かい励ましのお言葉をたくさん頂戴し、誠にありがとうございました。
今後の活動については、しばらくの間休止となることをお知らせいたします。
なお、皆さまにおかれましては、故人のプライバシーを尊重し、温かく見守りくださいますようお願い申しあげます。
以下日刊スポーツより。
【ヤクルト】つば九郎担当スタッフ肺高血圧症で永眠 4日に空港で倒れ入院 高津監督ら見舞いも
[2025年2月19日22時50分]
ヤクルトは19日、球団マスコットの「つば九郎」を支えてきた球団スタッフが永眠したと発表した。関係者によると、肺高血圧症のためという。球団は同マスコットの活動をしばらくの間、休止する。1994年のデビュー以来、毒舌の中にユーモアが交じる「フリップ芸」や「空中くるりんぱ」で人気を集めた。公式ブログは3日を最後に更新が途絶え、6日には体調不良による長期休養のため、4月中旬までイベントの出演を見合わせることが発表されていた。
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つば九郎の担当者が亡くなった。ヤクルトは19日夜になって「球団からのお知らせ」と公式ホームページを更新。「これまで、つば九郎を支えてきた社員スタッフが永眠いたしました。球団マスコットとして、ここまで育ててくれた功績に感謝と敬意を表します。体調不良の発表以来、温かい励ましのお言葉をたくさん頂戴し、誠にありがとうございました」と、悲しい知らせを発表した。
つば九郎は今月1日に沖縄・浦添で始まった1軍キャンプに同行していた。髪に金色のメッシュを入れた山田の囲み取材に乱入し「めっしゅにあってるよ~!」と、得意のフリップ芸を披露。関係者によると、担当者は4日に沖縄から帰京する際に空港の搭乗口で倒れて心臓マッサージを受け、そのまま豊見城市内の病院に入院していた。高津監督ら親しい球団関係者も見舞いに訪れていたという。1度は回復の兆しを見せたが、16日に永眠した。
名物の「フリップ芸」は毒舌の中にユーモアが入り交じっていた。時に時事ネタも交えながら、愛らしいルックスに似つかわしくない姿で、球場を笑いに包んだ。5回終了時のイニング間には帽子を高く放り上げる「空中くるりんぱ」が恒例のパフォーマンスに。マスコットでは異例の契約更改も実施し、1月には現状維持の年俸6万円、ヤクルト1000飲み放題でサイン。ネタや毒舌も野球への愛にあふれ、憎めないキャラだった。
球団は、つば九郎の今後について「しばらくの間休止となることをお知らせします」とした。94年4月9日阪神戦にデビューし、22年8月5日巨人戦では同2000試合出場を達成するなどファンに愛された。球団の枠を超え、球界の人気を支えてきたマスコット界の巨星。やすらかに。
◆つば九郎 94年4月9日阪神戦(神宮)でデビューした。名付け親は千葉県在住(当時)の小学生。12球団の主要マスコットで唯一、ユニホームを着ていない。09年に「つば九郎のおなか」を出版。12年には「つば九郎音頭~おとなのじじょう~」でCDデビュー。妹の「つばみ」がいる。今年1月28日の契約更改では年俸6万円+ヤクルト1000飲み放題で合意していた。背番号2896。右投げ右打ち。日本シリーズには6度出場し、4度日本一と勝率6割6分7厘。
◆肺高血圧症(はいこうけつあつしょう)肺動脈の流れが悪くなることで、心臓と肺に機能障害が起こる病気。原因はさまざまで、肺血管や心臓、肺に何らかの異常が起きると、肺動脈の血液の流れが悪くなり、肺動脈圧が上昇することがある。肺動脈圧が高くなると、肺動脈に血液を送る心臓の右心室にも高い圧力がかかり、心臓の右室が肥大、機能低下して右心不全が進む。息苦しさや息切れ、体のだるさ、足のむくみ、失神、血痰(けったん)などの症状があらわれる。治療せずに放置すると、さらに肺高血圧と心不全が進行し、数年以内に命を落としてしまうこともある。
URL: https://www.nikkansports.com/baseball/news/202502190001638.html
この訃報には、スワローズファンのみならず、「ドアラ」との絡みがあった中日、昨年の優勝チームDeNA、それにかつて病気で一時離脱した選手につば九郎がメッセージを送った広島、それに阪神やパ・リーグの球団やその他の球団のファンからもお悔やみのメッセージが、つば九郎のオフィシャルブログに多数寄せられた。
しかしながら、プロ野球チームのマスコットの「中の人」にとっては、たいへん過酷な労働環境だったのではないかとも思わないわけにはいかなかった。
今でこそ「つば九郎」と「ドアラ」が本も出したほどの積極的なプロモーションで知られるが、かつてはプロ野球球団のマスコットといえば阪急ブレーブスの「ブレービー」だった。
今回亡くなった「つば九郎」の中の人の個人情報は伏せられているが、「ブレービー」は元読売のドラフト1位選手・島野修(1950-2010)がやっていた。島野は読売では1勝4敗の成績しか残せなかった。投手だったが、高校野球時代の投げ過ぎによって故障したともいわれる。阪急に移籍したが、一軍に上がることさえできなかった。当時リーグ4連覇する強さを誇りながら、4連覇したその年(1978年。スワローズ初優勝の年)に最下位に落ちた阪神に人気では全く歯が立たなかった阪急がマスコットによる人気拡大を図った。その「中の人」に抜擢されたのが島野だった。
プロ野球ライターに永谷脩(1946-2014)という人がいた。読売の江川卓を持ち上げ、江川批判派の神経を逆撫でする人物だったから私は大嫌いだったが、のち1997年にイチローに嫌われてスポーツライターとしては没落したという。因果応報だと思ったが、その永谷とて江川の提灯記事ばかり書いていたわけではない。島野修のことも取り上げていた。以下『週刊ポスト』の2013年の記事から引用する。
巨人ドラ1選手が他球団マスコットの「中の人」になった経緯
巨人にドラフト1位で入団しながら、その後変わった形で野球界に携わった選手がいる。1968年に巨人に入団した島野修氏について、スポーツライターの永谷脩氏が綴る。
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2005年のドラフト1位、巨人・辻内崇伸(大阪桐蔭)が、一度も一軍で登板することのないまま、8年間のプロ人生に幕を閉じた。甲子園で156kmをマークして鳴り物入りで入団。キャンプの初ブルペンでは、当時の原辰徳監督と尾花高夫コーチが見守る“御前登板”で、合格点を与えられたほどの逸材だったが、故障に泣かされた。
この報せを受けて思いだしたのは、「黄金のドラフト」といわれた1968年の巨人のドラ1選手だ。山本浩二(広島)や星野仙一(中日)、田淵幸一(阪神)や山田久志(阪急)といった錚々たるメンバーが連なる中、巨人は、高校生を1位指名した。武相の島野修である。神奈川県代表として2年連続甲子園に出場。県予選ではノーヒットノーラン、18奪三振を記録した右腕だ。
地元球団・大洋の私設応援団長だった池杉昭次郎は、息子が武相に通っていたこともあり、「すごい高校生がウチに来る」と楽しみにしていた。だが結局は巨人が指名。当時巨人は田淵を狙っていたが阪神に奪われ、島野を大洋に持って行かれるならばと指名したのだった。球界では驚きの指名で、巨人入りを希望していた星野が「島と星の間違いじゃないか」と言ったというエピソードは語り草である。
「ドラフト1位ということで周囲からいつも見られているプレッシャーがあった。1年目に1勝を上げると、もっと良くなるとフォーム改造を指示され、それが原因で肩を故障した」(島野)
そのまま鳴かず飛ばずで、24試合で1勝4敗。1976年に阪急に移籍する。阪急では、同期の山田が既に90勝を上げ、大エースに成長していた。阪急でも結果を残せず1978年に引退を決意する。
山田には同期のよしみでよく食事に連れて行ってもらっていた。引退後、芦屋でスナックを開業した時も、仲間は店に来てくれた。だが島野は、今ひとつ肩身が狭かったという。「俺は球場では何も残せていない」という後ろめたさがあった。
そんな時、阪急がマスコット「ブレービー」の役者を募集していることを知った。表に立てずに終わった自分が裏に回ろうと心に決めて、すぐに応募した。私はある時、酔った勢いで、「店も順調なのにどうしてぬいぐるみに入ることにしたのですか」と聞いたことがある。
「同期のドラフト1位はすごい連中ばかり。それができなかった自分はこれで生きるしかないんだ。わからないだろうけどね」
ポツリと答えた島野に、悪いことを聞いたかなと思った。
夏の試合、ぬいぐるみの中は40度を軽く超える。汗と泥にまみれ、一生懸命パフォーマンスをしていたが、西宮球場には閑古鳥が鳴いていた。だがマスコットの人気はあり、夏休みに観戦に来ていた親子連れが、「パパ、明日もブレービーを見に連れて行って」と言ってくれたことが何よりも嬉しかった。
「ファンレターも来ているんだ。人気1位のプレッシャーというのは大変なんだぞ」
酔うとそうして、自嘲気味に話すのが常であった。
阪急が身売りをしてオリックスになり、マスコットが「ネッピー」に変わってからも職を続けた。マスコットが天職と言った島野。イチロー人気で、グリーンスタジアム神戸が満員になったのを見て「少し恩返しできたネ」と言った言葉を思い出す。島野は2010年に脳出血で世を去った。存命だったら、巨人OBの1人として、今、辻内にどんな言葉をかけるだろうか。今年もまたドラフトの日がやってくる。
※週刊ポスト2013年10月25日号
URL: https://www.news-postseven.com/archives/20131019_219562.html?DETAIL
以下、島野修 - Wikipedia より。
マスコット時代
[編集]引退後1年間は打撃投手として阪急に残ったが退団。その後、芦屋市でスナックを営んでいたが1980年秋に阪急の球団職員が島野を訪ねフィリーズのマスコット「フィリー・ファナティック」を例にあげて球団マスコット(着ぐるみ)役への就任要請をする[3]。マスコット導入[4]にあたり、島野の宴席での明るさを覚えていた幹部が、適役だと判断しオファーした[3]。後日球団事務所を訪れたところ、メジャーリーグ各球団のマスコットの活躍、特にサンディエゴ・パドレスの「フェイマスチキン」のパフォーマンスをビデオで見せられる。さらにファンサービス担当者の「野球を知っていないとできない仕事だよ」との言葉や、山田久志から「マウンドでいい思い出を残せなかったが今までにない新しい足跡を残せる」「シマちゃん(島野)のぬいぐるみに勝利を祝ってもらえるよう頑張る」と後押しされ[3]、「お客さんが少しでも増えるなら」と要請に応えた。
人形劇団などで特訓し、1981年4月11日の西宮球場でブレービーはデビュー[3]。たちまち人気者となり、阪急電車のホームや車両先頭などにイラストが使われるようになる。ところが1ヶ月後、東京新聞に「ぬいぐるみ着てグラウンドに帰った男の夢」、「島野修投手(巨人-阪急)の野球人生」、「いま『道化』でエースに」という見出しの記事[5]が掲載された。東京新聞の記事は「巨人のドラフト1位の期待を裏切った選手の“転落”ぶり」を伝えようという、ネガティブなスタンスであった。更に、シーズン終了後の11月には、巨人の親会社・読売新聞の紙面にて「ドラフトの星 人生流転」、「ファンのため“道化役” プライドは心の中に…」といった類同する記事[6]を掲載。以降、西宮球場では島野の姿を嘲るヤジが投げつけられるようになった[3]。
思い悩んだ島野が試合後球場近くの食堂で飲んでいた際、「ブレービーがめちゃくちゃ面白かった」、「またブレービーを見たいから球場に連れて行って」と親にせがむ子供の声を聞き、迷いが吹っ切れた。それ以降、ファンを楽しませるパフォーマンスを愚直に演じ続け、広く愛されることとなる[7][3]。
1989年、球団が阪急からオリックスへ譲渡され、1991年には球団愛称がブルーウェーブへ変更。それに伴いマスコットもブレービーから「ネッピー」となったが、新たな本拠地であるグリーンスタジアム神戸でも引き続きスーツアクターを務めた。1996年6月15日、札幌・円山球場で行われたロッテ戦で1,000試合出場を達成し、イチローから祝辞を受けている[3]。
スーツアクターは重さ10キロ以上の衣装を身に着けながら様々なパフォーマンスを行うため大変な重労働で、夏場は1試合で体重が3キロ減ることもあったという[3]。日当は三万円だった。また激しいパフォーマンスにより怪我も絶えず、なかでも1993年7月21日に神戸で初のオールスター戦が行われた際、バギーカーを運転しながら踏み台をジャンプするアトラクションで転倒し、肋骨を3本折るアクシデントに見舞われた。寝返りも打てないほどであったが、後半戦ではコルセットを3枚巻き、痛みの少ない左手の動きを強調して出場し続けた[8]。
身体の動きが悪くなったため1998年シーズン終了と共にネッピーのスーツアクターを引退。在籍中の主催試合1,175試合を皆勤で演じるなど、日本球界の球団マスコット演技者の草分けとなった[3]。
スーツアクター引退後も引き続きオリックスに球団職員として残留し、野球教室やコミュニティー活動などを担当していたが、2004年3月31日に病気療養のため退職。
2010年5月8日、脳出血のため西宮市内の病院で死去[9]。満59歳没。島野が死去した2010年を最後にオリックスはマスコットの変更を発表、ネッピーも勇退することになった。
大変な激務だったことが窺われる。結局島野は53歳だった2004年末に退職し、60歳の誕生日を1か月後に控えた2010年5月に亡くなった。
つば九郎の「中の人」の死を契機に、スワローズのみならず各球団の労務管理が問われることになるのではないか。
私はつば九郎のデビュー2試合目を神宮球場で観戦した。阪神とのこの開幕2連戦にヤクルトは連勝したが、どういうわけかこの年はそのあとのスワローズに関する記憶が全くない(笑)。この試合ではないが、過去にデジカメ等で撮ったつば九郎の画像も探せばあるはずだ。至近距離で撮ったことはないけれど。
謹んでごお悔やみ申し上げます。