「選挙マルシェKOTO」の動画をご覧になった方のコメントより。
追加ですが、内閣府中央防災会議の報告書も朝鮮人(他に一部の日本人、中国人)虐殺があったことを認めていますよね。江東区は現場だったろうに、なぜ、「あったかなかったか分からない」という態度をとるのか理解に苦しみます。
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html
コメントおよびはてなIDのご取得、どうもありがとうございます(後者について私がお礼を申し上げるのはすこし変かもしれませんが)。
関東大震災の時には千葉県の福田村(現野田市)で、香川県民が讃岐アクセントの言葉を「朝鮮人ではないか」と咎められて虐殺された事件(「福田村事件」)も起きました。元香川県民、現江東区民の私は、もともと二択に絞り込んでいた候補者(その選挙では二人とも落選しました)のどちらか以外に選択肢を増やす目はないことを、今回「選挙マルシェKOTO」の動画を視聴して改めて確認しました。
こんにちは。以前は「匿名意見」のハンネでコメントをさせていただいておりましたが、ようやく、はてぶIDを取得しました。今日もコメント欄汚し、お許しいただければ有り難いです。
興味深く動画を見ました。
26歳の高橋氏など、若年層の政治意識を知るための参考資料になりました。
1つ気になったのは高野区議も項目立てしておられる関東大震災時の朝鮮人虐殺に対する追悼文送付の件です。
三戸氏を含む一定数の参加者に見られた、差別は許されないが虐殺があったかなかったのかはよく分からない、という態度には深い疑念を覚えました。
綺麗事を言うだけなら誰でもできる。しかし人間はどこまでも愚かな存在であって、時に差別意識にもとづいた虐殺を犯すなどして、その基本的で単純な綺麗事を簡単に裏切ってしまうものです。だから私はこの種の問題に関しては、まず「何があったかのか、なかったのか」に徹底的にこだわるべきだと思います。
私の経験に照らすと、「何があったかのか、なかったのか」を歴史上の失敗について突き詰めて行くことは、自己自身の倫理的出来事について「何があったのか、なかったのか」を問う営みに本質的に重なってきます。
最初は事実と責任を否認するでしょう。否認しても良いと思います。責任を負うことへの恐怖は誰にでもありますから。次に事実を矮小化して部分的な責任逃れを図ろうとするかもしれません。それでいいと思います。事実に合致した責任の大きさを正確に認識するためには必要なプロセスだと思いますから。さらには、合理化をしようとするかもしれません。それでいいと思います。その言い訳は自分で自分を許す理由にはなっても、相手は決して自分を許してくれず、さらに立場を入れ替えてみれば、自分だって相手を許す理由とはしない代物だと分かるだろうから。そして最後には、逃れられない責任の存在を自覚して、後悔が襲ってくるのでしょうか。
所詮は私の経験です。しかし、私の経験ではあります。人間の愚かさを直視することなく述べられた綺麗事を私は信用しません。
「後ろ向き」、「何時までも拘るな」、「もっと建設的に」、「未来を語ろう」。動画にも似たようなフレーズが出てきました。少し考えすぎかもしれませんが、「差別を許さない」もこうしたフレーズの中に入ってしまうのだとしたら、危うさを感じます。
日本は本当にもう一度戦争をすることになるかもしれませんね。戦争をしないこと、このことを私の参院選投票先を決める上での最重要テーマとします。
ちなみに、三戸氏、一言一言に基本理念と戦略的意図を込めていたように見え、その点では賢い方なのだろうと思いましたが、朝鮮人虐殺に対する追悼文の件と都立墨東病院の件にはぜんぜん受け答えができていないように見えました。高野区議の記事による暗示的効果があったのかもしれませんが。しかし強い候補であるとのこと、その力の源を見極めて行きたいと思います。