参院選後、政治に関するどの言説を見ても「これは違うよなあ」としか思えない。
特に全然ダメだと思うのが「駅前は朝の七時」に代表される立民あるいは民主・民進主義系右派の言説だが、彼らはまず自民党政権ありきで、いかにそれに対抗するために「バスに乗り遅れないか」に腐心している。今は「日本人ファースト」がトレンドだから立民もそれに乗っかれと言っている。
違うのだ。レバ子氏は「来た球を全力で打ち返す」しか能がないのが民主・民進系の最大かつ最悪の欠点だと仰るが、今はその球がもはや「来ない」のだ。
レバ子氏はまた、共産党がダメになったからそれに対抗する宗教右派も衰えたと指摘する。それもそうかもしれない。それと同じで、自民党がダメになったから自民党にとって代わって政権交代を目指す立民も支持されなくなったように私には見える。
要するに、決まった枠組の中で頂点を目指していたところ、枠組そのものが崩れようとしているのが今の日本の政治ではないか。
産業界には政治よりも早くその状態が訪れ、キャッチアップは得意だったが新たな道を切り開くことが苦手な日本の産業は没落していった。
城山三郎は全盛期の日本の企業における権力闘争を小説にした。それはもう時代遅れだと2018年に書いたのが一橋大の楠木建教授(当時。2023年退職)だった。
この書評は以前一度このブログに取り上げたことがあるが、その記事は前振りの部分がもはや陳腐化してしまっているので改めて取り上げる。
今日は時間の余裕がないので少ししか引用しないが、興味のある方はリンク先をご覧になられたい。書評記事の冒頭部分に概要が書かれているのでその部分のみ引用する。
経営者には大別して2つのタイプがある。「三角形の経営者」と「矢印の経営者」だ。
企業でも役所でも、あらゆる組織には階層的な権限配置の構造がある。どんなにフラットで自由闊達な組織であっても、そこには依然としてヒエラルキーがある。権限の階層性はいつの時代も変わらない組織の本質のひとつである。
まるで登山のようにヒエラルキーを上へ上へと昇っていく。山頂にある社長のポストへの到達を最終目標として、キャリアを重ねていく。ついに社長になり、一件落着――。これが三角形の経営者だ。
三角形の経営者は本当のリーダーではない。商売の基を創り、戦略ストーリーを構想し、商売丸ごとを動かして成果を出す。商売が向かっていく先を切り拓き、外に向かって動きと流れを生み出す。矢印の経営者こそが本来のリーダーだ。
政治家も経営者と同じだと思った。
以前上記書評を初めて読んだ頃の立民代表は泉健太だったが、泉は典型的な「三角形の政治家」だと思った。その認識は今も変わらない。まだ安倍晋三が生きていた頃に泉が立民代表になった2021年にはまだ泉のような「調整型」のリーダーが選ばれる余地はあったが、現在はもうない。
ビジョンあるいは構想力が問われる時代になった。参政党は最悪のビジョンを、あの恥ずかしい憲法草案で示した。あれが少なくない人たちに支持されるとは世も末だと思うが、悪名は無名に勝るというか、この「焼け野原」と化しつつある日本の国政において何もビジョンを示さないよりはまだ醜悪極まりないビジョンであってもそれを指し示した参政党が支持されたということだ。あるいは「手取りを増やします」と言いつつ、その実態は「万人の万人に対する闘争状態」というホッブズの「自然状態」を目指すことを宣言したも同然としか私には思えないが、少なくとも玉木雄一郎も参政党に負けず劣らず惨憺たるものではあるけれどもそれなりのビジョンを示した。
立民にはそれがないのである。あるいはビジョンを持った人間がリーダーをやっていない。だから、自公が崩れつつあることが明らかになった参院選の比例区の得票率が自民、民民、参政の後塵を拝する4位に終わった。
早急かつ厳しい総括が求められる所以(ゆえん)である。
総括が必要な政党は他にも多いが、その多くは政党の性格自体が総括を阻んでいる。その中にあって、2022年参院選の敗因が泉健太が推進した「提案型野党」路線にあったと正しく総括できる力がその当時の立民にはまだ残っていた。しかし現在の立民支持層の意見発信をXなどで見ていると、残念ながらそのポテンシャルも失われつつあるように見える。