kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

不破哲三は2000年に「徳田・野坂分派」を論難したが、野坂参三 (1892-1993) がソ連のスパイだったことが週刊文春に暴かれたのは100歳の1992年であり、その年まで野坂は共産党の名誉議長だった

 宮武嶺さんとの共産党の「分派」問題の論争ですが、私の返答が遅れて宮武さんには年を越させてしまって本当にすみませんでした。

 本論に関しては議論は打ち止めで良いと思いますが、宮武さんの記事についた秋風亭遊穂さんの下記コメントを読んで、というより当該コメントからのリンク先(共産党のサイトへのリンク)を読んで、思うところが少しあったのでそれについて書くことにしました。

 なお「ですます」調(敬体)の文章はここまでにして、以後は常体の文章にします。

 

raymiyatake09.hatenablog.com

 

 秋風亭遊穂

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 共産党の分派禁止の話、官憲の弾圧の他にもこんな事例があります。

https://www.jcp.or.jp/jcp/jcp-syokai/html/fuwakoen_2.html
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2022-03-16/2022031605_01_0.html

 私も詳しくは知りませんが、外部からの干渉は現在も絶えずあることかと思います。党内に暴力を正当化する思想を認めてはダメでしょう。ですから他の党より厳しい規律が必要かもしれません。
 ハマスの無差別殺人を正当化する人たちと厳しく議論しましたが、彼らの暴力正当化は強固でした。そんな人たちが世間にはひょっとしたら少なくないのかもしれません。もちろん、日本共産党にはそんな人は一人もいないと信じています。

 さて、加藤哲郎氏の1917~1920年のロシアは分派を禁止していなかった、というお話ですが、当時のロシアは内戦状態、また赤色テロ、秘密警察による弾圧など、カオスな状態でした。そのような背景で党内の分派云々を語ること自体、どれほどの意味があるのか疑問です。
 ですから1921年の分派禁止令は、党内の反対派を徹底して封じ込める(異論を留保するのではなく)意味、そして同時に見ておくべきは、外部(政敵、農民、労働者、聖職者など)に対する弾圧という文脈でも捉えるべき話だと思うのです。

 ①言論弾圧の事例。
 Decree on Press was adopted
https://www.prlib.ru/en/history/619704

 ・1917年10月27日(同年11月9日)、人民委員会議は報道に関する法令を採択。「政府への抵抗や不服従を呼びかけ、不和を煽り、人々を犯罪行為に駆り立てるすべての報道機関を閉鎖する」
 ・1918年1月28日の法令に基づき、革命報道裁判所が設立。ペトログラードのほぼすべてのブルジョア新聞は1918年7月までに廃刊。

 ②反対政党の禁止。
 ・1917年11月28日: 立憲民主党(カデット)が非合法化、指導者の逮捕。
 ・1918年: ロシア内戦中、メンシェビキや社会革命党(エスエル)はチェーカー(秘密警察)によって逮捕。

 これを踏まえれば、当時の党内で「批判の自由と行動の統一」が実践されていたのか、私は懐疑的です。

 

 上記コメントに最初に張られたリンクは下記。

 

 上記リンクの記事からさらにリンクされた2000年の不破氏の講演録へのリンクは下記。

 

 ここでは最初のリンク先の記事を引用する。

 

 

 日本共産党を「暴力革命の党」と中傷するため、1950年代のあれこれの事件をとりあげた攻撃もありました。しかし、日本共産党の正規の機関が「暴力革命」などの方針を決めたことは一度もありません。

 

 この問題の本質は、ソ連・中国からの干渉にありました。1950年に日本共産党を分裂させた「徳田・野坂分派」を使って、ソ連・中国流の武装闘争方針を持ち込もうとしたのです。それとのたたかいを通 じて、今日の党があり、綱領があるというのが、もっとも重要なことです。

 

 日本共産党は、1946年の第五回党大会で「平和的かつ民主主義的方法」で社会の変革をめざすという方針を決めました。これにたいし、1950年、コミンフォルム共産党・労働者党情報局)から、「アメリカ占領下での『平和革命』論は間違っている」と突然の「批判」がありました。この「批判」は、当時の徳田球一書記長ではなく、政治局員だった野坂参三だけを名指しで問題にしたものでした。これは、ソ連の情報機関につながる秘密工作者となっていた野坂に、新方針を伝えるためのメッセージだったとみられます。そのいきさつについては、不破委員長の著作『干渉と内通 の記録』がソ連秘密文書をもとに明らかにしています。徳田、野坂は、党を破壊し、北京に亡命して勝手につくった「北京機関」を党の指導機関と称して、ソ連・中国じこみの方針を日本に持ち込んだのです。

 

 「徳田・野坂分派」の行動は、党の決定に根本的にそむいたもので、日本共産党の大会や中央委員会とはなんの関係もありません。

 

 当然、この路線は破たんしました。そして、日本共産党が統一を回復した第七回党大会(1958年)、現在の綱領を確定した第八回党大会(1961年)にすすむ過程で、(1)徳田、野坂らが党を分裂させたことの誤り、(2)ソ連・中国などの干渉に追随したことの誤り、(3)武装闘争路線を持ち込んだことの誤り――を明確にし、それを根本的に克服するなかで、今日の党の路線が確定したのです。

 

 不破委員長は、「反共派が『火炎瓶闘争』などといって問題にしているのは、ソ連・中国の言いなりになって党を分裂させ、北京に拠点をかまえた徳田・野坂分派が、党の決定にそむいてやったこと、今日の日本共産党が、この分派の後継ぎであるかのようにいいたてるのは、歴史を無視したまったくのいいがかりにすぎない。日本共産党の今日の路線は、この干渉をうちやぶるたたかいのなかで築かれたものだ」と強調しました。

 

URL: https://www.jcp.or.jp/jcp/jcp-syokai/html/fuwakoen_2.html

 

 不破は「徳田・野坂分派」などと言うのだが、私のような年寄りは、えっ、90歳の1982年まで初代共産党議長を務めて、党名誉議長の称号を得ていた100歳の1992年には『徹子の部屋』に出演してNHK教育テレビでも番組が組まれた野坂が8年後にはそんな言い方をされてたのか、と思った。

 以下Wikipediaの記事をリンクするが、信頼性が云々されることが多いWikipediaとはいえど、下記に書かれていることはかなり信頼度が高い(一部そうでない部分があるが後述)。

 

最晩年の除名

議員引退後には、1970年代から書きついで来た自叙伝『風雪のあゆみ』(1989年、コミンテルン第7回大会のころまでのことを書いている)を完成させ、1992年には生誕100年ということで、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれたこともあった。

しかし、その直後の『週刊文春』9-11月の連載が元となり、調査の結果ソ連スパイだったとして、1992年9月20日日本共産党名誉議長を解任された[7]。さらに同年12月27日の党中央委員会総会において、日本共産党からの除名処分が決定された[2][8]。これはソビエト連邦の崩壊後、公文書が情報公開され、野坂が1939年にアメリカ合衆国からコミンテルンディミトロフへ送った手紙が明らかになったことによる[7][2]。野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895-1939年)ら数名をNKVDに讒言密告し、この結果山本はスターリンによる大粛清の犠牲となったのである[7][2]。名誉議長解任時点では日本共産党は、高齢の野坂に対して「党としてひきつづき必要な配慮をはらう」[9][10]としていたが、その後の除名処分により「配慮」も打ち切りとなった[10]

野坂は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」[2]と述べた以外はこの件について語らず、1993年11月14日に死去した[11][12]。101歳没。参議院では慣例に従い、永年在職議員表彰者であった野坂に弔詞を贈呈したが[13]日本共産党はこれに反発し、弔詞の議決とその朗読の間は参議院本会議を欠席した[11][12]

墓所山口県萩市の泉福寺にある[14]

 

 野坂の「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」という言葉の出典は野坂の除名を報じた朝日新聞の1992年12月28日付夕刊だが、この言葉が印象的だったので忘れられない。野坂を撃ったのは『週刊文春』、今で言う「文春砲」だが、野坂は長生きし過ぎたために文春砲の直撃を受けてしまった。私は当時「どうせ文春の『反共攻撃』に過ぎないんじゃないか」と思っていたので、野坂が除名された上に自らの悪行を認めたことには本当に驚かされた。

 この1992年から翌93年の年末年始は、私のこれまでの生涯でただ一度だけ海外で過ごした。帰国して溜まった新聞記事を読んで驚かされた次第。

 しかしそんなことは上記共産党のサイトの文章を読んだだけでは想像もつかないだろう。仮に文春が野坂のスパイ疑惑を暴いたのが野坂の死後だったら、今頃共産党における野坂の評価はどうなっていただろうかと考えさせられる。

 実際、死後に「特高のスパイだった」との冤罪が晴らされた共産党の幹部もいる。伊藤律である。

 伊藤律は私の父と出身地が同じだ。母の話だと、伊藤律の話を昔よく聞かされたらしい。その伊藤に関する本が江東区のいくつかの図書館に置いてあったのでそれらを読んだのが2017年の秋。伊藤律自身の『伊藤律回想録 - 北京幽閉二七年』(文藝春秋1993)、律の息子が書いた伊藤淳『父・伊藤律 - ある家族の「戦後」』( 講談社2016)、また加藤哲郎ゾルゲ事件 - 隠された神話』(平凡社新書2014) 、そして極め付きは伊藤律の冤罪を晴らし、松本清張の『日本の黒い霧』(文春文庫) に但し書きをつけさせた渡部富哉『偽りの烙印 - 伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房1993, 1998改版) だった。これらを立て続けに読んだ。全て江東区の図書館で借りた本だったが、4冊とも読み始めた翌日に読了した。しかし文春は清張本の誤りを認めて追記を入れたけれども(清張本は絶版にはらなかった)、日本共産党は今に至るも伊藤律の名誉回復はしていない。いずれの言い分に理があったかは後世の歴史家に判断されることになろう。

 私が言いたいのは、共産党執行部による「正史」がいつも正しいわけではないということだ。しかし真実に迫ることはなかなか難しい。共産党側からも伊藤律の遺族側からも極悪人扱いされている野坂参三が『徹子の部屋』に野坂が出演したのが1992年の何月何日だったかは新聞の縮刷版を調べてみたらすぐにわかることだろうが、ネット検索をかけてもかつても今もわからない。ましてやYouTube等の動画サイトで当時の映像を見ることもできない。NHK教育テレビで放送されたという野坂の番組についても同様だ。

 それに野坂の側にだって言い分はあるだろう。伊藤律の遺族側からの情報でもWikipediaの記述でも、野坂は「多重スパイ」だったと非難されている。伊藤律側の発信で、野坂は「六重スパイ」だったと書かれていたのがこれまでに見た最多重スパイ情報だ。Wikipediaには下記のように書かれている。

 

多重スパイ疑惑

上述のようにNKVDの情報提供者であったことは本人も認めたが、実際にはNKVDだけでなく日本の特別高等警察アメリカ・中国などにも情報提供を行う多重スパイだったのではないかとの指摘が複数存在する[23][24][25][26]

 

 しかし、文春砲の砲撃さえ受けなければ、野坂は今も共産党の偉人としてほめたたえられていた(崇拝の対象になっていた)かもしれない。

 そう考えると、共産党執行部への批判をタブーとする態度をとることなど、決してあってはならないと思う。

 私は組織において、前の記事に書いた星野仙一高市早苗のような「爺殺し」の社員に見込まれて人事を私の望まない方向にねじ曲げられたために、それに反発したら「爺殺し」氏が頼った会社の権力者(人事権を持つ部長級の人間)に手痛い処遇を食らい、結局それがきっかけで一部上場企業を退職したことがある。

 そういう経緯もあって、恣意的な人事権の行使には特に敏感である。共産党の例だともっとも心が痛むのが三重県議と同津市議の若い女性議員同士の問題であるとは昨年末の記事に書いた。とりわけ離党に追い込まれた市議に対し、かつての私よりもっと若くして同じだ。組織で人事権を持つ人間による恣意的な人事行使の対象になった側の人間としては、そんな人事はたまったものではないのである。たまたま運が良くてそのような目に遭ったことがない方々も、そんな目にあったらやられた人間が何を思うかという想像力くらいは持ってもらいたいと強く願う。共産にせよ立民にせよ、執行部が無謬のはずがない。とはいえ、一時期立民の東京15区支部長だった井戸まさえ氏が民民の東京4区支部長に就任して以来の言動は全く支持できない。あのあたりが「松下政経塾出身者の限界」かと思う。

 話はそれたが、野坂参三に関して前記Wikipediaに書かれている

野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵1895-1939年)ら数名をNKVDに讒言密告し、この結果山本はスターリンによる大粛清の犠牲となったのである[7][2]

という説を否定したのが中北浩爾『日本共産党』(文春新書, 2022) である。このことは弊ブログの下記記事に書いた。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

 歴史の審判に耐えて日本共産党を現在まで生き延びさせた「宮本路線」の生みの親である宮本顕治は、その反面、宮本顕治不破哲三らは党の誤りの責任を袴田里見野坂参三らに押しつけたともいえるわけで、「宮本路線」を高く評価する中北浩爾『日本共産党』にもそのような記述が何箇所かあります。中北本によれば野坂参三が山本懸蔵をソ連に密告した(そのために山本がスターリンに処刑された)とする説は「現在では否定されている」*1とのこと*2ですし、宮本が最高権力者になる前の事例である伊藤律についても、伊藤が特高のスパイだったとする共産党の認定(尾崎秀樹松本清張らによって流布された俗説がそれを補強した)も「現在では否定されている」*3し、戦前に宮本らに査問されて死亡した小畑達夫についても「スパイであったか否かについて論争がある」*4とのことで、彼らに対する党の認定が現在のままで良いかどうかは私には大いに疑問です。

 

URL: https://kojitaken.hatenablog.com/entry/2022/06/28/071211

 

 確か日本共産党は中北本を黙殺したと記憶する。野坂は性格的に結構弱いところがあったようで、それでソ連に対しても中国に対してもアメリカに対しても特高に対しても党を売る「多重スパイ」になってしまったのだろうが、そういう人が小狡く立ち回って、もう少しで旧悪が暴かれずに名誉議長として逃げ切れる寸前だったことに、共産党の体質に対する強い疑問を私は感じる。しかしそんな野坂にも回復されるべき名誉があるとことを中北本は教えてくれる。その本を黙殺してしまう共産党の体質はやはりいただけない。

 少なくとも、自ら変わろうとする姿勢を共産党には見せてもらいたい。そう強く願う。

 なお、戦後、というか1950年代のある時期まで共産党の「分派禁止条項」が必要不可欠だったとは私も認めます。しかしせめてかつての「構造改革派」として、宮本顕治の息のかかった人たちを自らの系列の人たちに置き換えた(そのような人事権の行使を行った)とされる不破哲三の時代には、「分派禁止条項」は撤廃すべきだったと思います。

 ああ、最後の2つの文章だけ敬体に戻りました。