kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

昭和天皇までもが激怒した靖国神社へのA級戦犯合祀

朝日新聞が4月26日に卜部侍従の日記を公開したのは、明らかに第一回の「昭和の日」を意識して、その直前のゴールデンウィークを前にした木曜日を選んだものと推測される。

http://www.asahi.com/national/update/0426/TKY200704250363.html

以下引用する。

逝く昭和と天皇、克明に 卜部侍従32年間の日記刊行へ

 晩年の昭和天皇香淳皇后に仕え、代替わりの実務を仕切った故・卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従が32年間欠かさずつけていた日記を、朝日新聞社は本人から生前、託された。天皇が病に倒れて以降、皇居の奥でおきていた昭和最後の日々が克明に記されている。天皇靖国神社参拝取りやめについては「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」と記述。先の戦争への悔恨や、世情への気配りなど、天皇の人柄をしのばせる姿も随所に書きとめられており、昭和史の貴重な記録といえそうだ。

 日記で詳細をきわめるのが、昭和天皇の闘病から逝去までの記述だ。

 天皇が強い意欲を示していた戦後初の沖縄訪問は、体調の悪化で中止に追い込まれる。

 87(昭和62)年9月14日、「手術にふみ切る線で沖縄もムリと判断。(略)ついに来るべきものがきたということだが暗雲たれこめうつうつとして楽しまず 今後の諸問題のことが頭をよぎる」。

 腸のバイパス手術を受けた天皇は国事行為や公務への復帰に執念を燃やす。しかし、ブレーキをかける卜部侍従に「突然摂政にした方がよいのではと仰せ」(88年2月9日)。そんなことなら、天皇重篤な場合などに立てられる摂政を決めたらどうか、といらだちをぶつけている。

 88年9月の吐血以降の容体、肉親の悲しみも痛々しい。見舞った皇族から「助けてとかどうにかならないかの頻発でお気の毒の由 点滴の針も難しくなる」(11月3日)。天皇の意識が遠のいていく中、意識をはっきり保たせるために侍医団は血中アンモニアを減少させる薬剤を使用していた。「今朝は反応がかなりはっきりしてこられた由 とにかく摂政の話を消すためにも意識混濁の表現は禁句と」(同29日)。肉親への反応も徐々に鈍っていく。「常陸宮同妃御参 殿下おもうさま(お父さま)と呼びかけ わずかに眼お開きか」(12月17日)

 翌89年1月7日、卜部侍従は、息を引き取った天皇の髪を整えひげをそる。「たんかにて御尊骸(そんがい)を御寝室からお居間にお移しする あまりに重いのに驚く」

 靖国神社参拝取りやめの理由についても記述されている。

 最後となった天皇の記者会見から数日後の88年4月28日。「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁(はいえつ)のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」。「靖国」以降の文章には赤線が引かれている。

 昭和天皇靖国神社A級戦犯合祀に不快感を吐露したとみられる富田朝彦宮内庁長官(当時)のメモも同じ日付。天皇は富田長官と前後して卜部侍従にも戦犯合祀問題を語っていたことになる。そして、卜部侍従は亡くなる直前、「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」(01年7月31日)と記している。

 日記の随所にみられるのが、終戦記念日原爆の日に律義に慎む天皇の姿だ。2・26事件の日もその一つだった。

 事件から41年たった77(昭和52)年2月26日。天皇は意外な言葉を口にする。「御就寝前 治安は何もないかとのお尋ね」。天皇のトラウマの深さがうかがえる。

 忍び寄る老いとの闘いも記録されている。75年2月17日、73歳の天皇祈年祭の最中、賢所(かしこどころ)の中で2度倒れていた。その後の新嘗祭(にいなめさい)でも卜部侍従が天皇の体を支えており、高齢の天皇に祭祀がいかに過酷になったかがわかる。

 このほか、77年7月、皇后が那須で腰椎(ようつい)骨折した際の御用邸内の様子、皇后が次第に心身の不調に陥るプロセスや天皇の心配ぶり、また石油危機では御料車の使用をためらい、行革が叫ばれた時には歴代最長寿の祝賀をやめさせるなど国民感情に気配りする天皇の姿も記録されている。

 日記は「昭和天皇最後の側近・卜部亮吾侍従日記」全5巻として、5月以降朝日新聞社から順次刊行される。

asahi.com 2007年4月26日 8時1分)

昨年7月に日経新聞が「富田メモ」をスクープした時、2ちゃんねらーたち(笑)が「日記は捏造だということを証明した」などとほざき、「きちが石根」という右翼ブログや、果ては岡崎久彦櫻井よしこまでもがその尻馬に乗って、テレビで日記の偽造説をほのめかすなどしていたが、彼らはとんだ赤っ恥をかいた形だ(笑)。今朝のフジテレビ「報道2001」は白旗を掲げている。

なお、私は「昭和の日」に改称する法案が可決されたこと自体は知っていたが、今年から施行だとは知らなかった。また、この改称が良かったとも全然思わない。

そのまんま東ももっと早く言えよなあ、これを

東京都知事石原慎太郎が、東国原英夫宮崎県知事に対して怒っているという。
発端は、東国原知事がホームページに載せた下記の文章。

http://www.zunou.jp/higashi/diary2.cgi

電波知事の憂都 (04月09日 20時16分)

 7日(土)羽田から新橋まで国道15号を走った。途中、実に多くの方々に声を掛けられた。実に多くの人々に「頑張って〜!」「応援しているからね〜!」「東京を頼むね〜!」まるで僕が選挙に出ているみたいだった。
 
 そんな中、何と、桑マンと偶然遭遇。桑マンは家族と車に乗っていた。
 
 走りながら、東京都知事選最終日の雰囲気を肌で感じた。
 空気感で投票率は上がると感じた。石原氏が当選することは鼻から予想していた。問題はどれくらいの勝ち方をするか?だった。
 
 桜金造さんやドクター中松氏のポスターも拝見。やっぱ、東京は面白い。多くの鬼才・奇才の終結地である。
 
 夜、I秘書官と食事会。
 
 8日(昼)お台場から東京駅(八重洲グローバル)まで走った。途中、有明にある2016年東京オリンピック選手村建設予定地を通った。お台場から晴海通り、そこに今の東京が存在した。
 一体、東京はどこに行くのだろう?行きたいのだろう?
 
 東京は、結局、マニフェスト不在選挙だった。「マニフェストの壊死」。東京のある種なその圧倒と後退、「実は保守の素顔」、その真実をあっさり露呈した。そんなことは百も承知だったが。改めて認識させられた。
 ドリームのある都市はいつでもどこでも保守的である。保守的であることが「夢」や可能性を際立たせる。
 それを彼は知っている。
 
 東京に「革命」「改革」の機運はまだまだ起こらない。起こるための決定的でかつ現実的なファクターが薄い。いや、多数の人々が薄いと感じている。いや、気付いてないのだ。もしかすると気付きたくないのかも知れない。気付きたくない人が都会に集中してくるのかも知れない。
 
 「革命」より「夢」や「可能性」が優先される。「夢」と「可能性」を信じるために保守であり続けなければならない街――東京。
 「改革」に気付きたくない都市、東京。
 保守であることによって理想と「夢」を、実際に「夢」が存在することを演出した街。ある意味、それが人々の理想であることが皮肉な現実である。
 
 選挙は、ときに、社会とその社会に暮らす人々とそれらの正体・実体を浮き彫りにする。逆に言えば、それらへの先見が選挙を制する企てと言えよう。
 
 東京は創造(変化)を一旦拒否した。東京の傲慢は復活した。これで暫く、東京は変わらない。日本も変わらない。それが是であるか非であるか?その検証も当面封印された。

これに対して石原が激怒した。

http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070428-OHT1T00006.htm

以下引用する。

慎太郎都知事怒った 東知事の「傲慢」発言を一蹴

 東京都の石原慎太郎知事(74)が27日、宮崎県の東国原(ひがしこくばる)英夫知事(49)のホームページ(HP)上での「東京の傲慢(ごうまん)は復活した」との発言に対し、「田舎もんが東京のことを偉そうに言わん方がいい」と言い放った。「傲慢」発言については、東国原知事が複数のメディアで「傲慢なのは石原知事ではなく、保守的でありたいと願う都民」などと説明。この弁明に、石原知事は不快感を露骨に示し「言うことがあるなら、オレの目の前に来て言えばいい」と“直接対決”を突きつけた。

 「目の前で言え、オレの前で言ってみろ、向こうにそう言っときゃいいよ」石原知事は、東国原知事の名前が出ると、質問を遮って、吐き捨てるように語った。

 東国原知事都知事選開票翌日の9日夜、HP上の日記で「東京は創造(変化)をいったん拒否した。東京の傲慢は復活した。これで暫(しばら)く、東京は変わらない」と持論を展開。“石原都政批判”とも受け止められ、石原知事は23日の会見で「何をもって傲慢というのか、もう少し詳しく聞かせてもらいたい」と語っていた。

 これに対し、東国原知事は複数のメディアで「傲慢」は石原知事個人ではなく、「変革」を求めず「保守」でありたいと願う都民を指していると説明。9日の日記にも、東京について「『夢』と『可能性』を信じるために保守であり続けなければならない街」「『改革』に気付きたくない都市」と論じている。

 しかし石原知事は、東国原知事の“弁明”を「つじつまが合わない。日本語になってないな。もう1度、勉強してメッセージを出した方がいい」と真っ向から否定。「都民が保守的でありたい? そりゃいいものを残すのが『保守』であり、悪いものを直すのが『改革』でしょ。両方やっているじゃないですか」と説明した後、ついにキレた。「どういう人か知らんけどさ。あまり田舎もんが東京のことを偉そうに言わん方がいい」

 最後に「東国原知事に言いたいことは?」と問われると、ひときわ語気を強めて「ないねー」。さらに「舌足らずじゃなしに、言うことがあるならオレの目の前に来て言え。面と向かって。別にそこでケンカするわけじゃないけど」と“直接対決”を要求した。

 一方で、人気知事同士の場外バトルは本意ではないようで、「また、そんなことであおんなさんなよ」と少々うんざりした様子でもあった。

 ◆釈明「数字が違うかも」

 石原知事は、当選後の会見などで阪神大震災発生時の兵庫県知事の対応を「首長の判断が遅かったから2000人余計な人が死んだ」と批判したことについて、「ちょっと数字が違うかもしれない。(知事選の選対本部長だった)佐々淳行さんの受け売りだった」と釈明した。

 その上で「崩れた現場で人の気配があっても、重機がないまま人がむざむざ死んだ。だから法改正で自衛隊の判断で出動できるようになった」などと話した。

 石原知事の発言に対しては、発生時の兵庫県知事だった貝原俊民氏が「判断の遅れではない」と反論する手記を公表している。

(2007年4月28日06時00分 スポーツ報知)

石原はヤクザか? こんなやつに3期12年も都政を委ねる東京都民の気が知れない。
東国原知事の主張は正論なのだが、これを都知事選の前に言ってほしかったね。そしたら、もっと面白い選挙になったのに。
東国原知事は、当初浅野史郎氏を応援する構えを見せながらも、結局浅野氏側からの応援の依頼を断ったそうだ。今回の都知事選では、何かものを言いそうな人が結局誰も口を開かず、それが石原の圧勝につながったと私は考えている。東国原氏も例外ではなかった。