kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「擬似イベント」と化した政治

「低気温のエクスタシーbyはなゆー」経由の情報。
現在の劇場型選挙を予測していた筒井康隆の「48億の妄想」: 低気温のエクスタシー(故宮)

「きまぐれな日々」でも、ブログ開設直後に取り上げた。
きまぐれな日々 筒井康隆の小説

60年代の昔からマスコミ、特にテレビの本質を見抜き、これを皮肉った「48億の妄想」(大変な慧眼だと思います)以下の「擬似イベントもの」も面白いです。

「低気温のエクスタシーbyはなゆー」からリンクを張られている下記記事(コイズミ内閣成立前年の2000年に公開)の指摘は鋭い。
http://www.shuyu.gr.jp/tokyo/nimoku/dai479.html

 実は小説家の筒井康隆さんがいまから35年前に出した「48億の妄想」という本
がある。そこら中にテレビカメラが据付けられ、政治家も一般人も、交通事故に遭
った被害者も、テレビを意識して受けを狙う世界で、あげくのはてに外務省と手を
組んで韓国に戦争を仕掛けるという危ない話だ。
 その中に登場人物の言葉として「政治なんて難しいものは、もっとわかりやすく
して、それからもっと面白くして見せなきゃいかん」と言わせ、またほかの個所で
は、「難解な政権を喋り捲る政治家は“難しいことばかり言って、もっとも面白く
ない人”とされ。無視される」「記者の仕事は前もって、如何にその出来事を劇的
に盛り上げるか、如何にセンセーショナルに演出するかを考えることにあった」
「成功した政治家はマスコミに利用されながら、巧みにマスコミを利用した人間た
ちのことだ」などという下りがある。繰り返すが35年前の小説だ。作家というの
はたいしたもんだと思うと同時に、われわれテレビ局の人間への戒めと受け止めた
いと思う。

繰り返すが、これはコイズミ内閣成立前年の指摘だ。「48億の妄想」は1965年の小説であり、今は山本周氏の指摘からさらに8年が経ち、43年前の小説が現在を鋭く予言していることになる。私がはじめてこの小説を読んだのは、1985年か86年のことであり、この時すでに筒井の先見の明に感嘆していた。

それから20年余、インターネットなるものが普及し、「ブログ」なるメディアが現れ、劇場型政治を批判すべき反政権系の「ブロガー」が、「政治なんて難しいものは、もっとわかりやすくして、それからもっと面白くして見せなきゃいかん」などと言い出す始末だ。

世も末だと思う。