kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

『凪論』の素晴らしい慧眼と、なお去らぬ城内実当選の脅威

http://blog.livedoor.jp/patriotism_japan/archives/51542658.html より。

 私は「城内実氏のブログでの暴走はなぜ起こったか」において、

「このような発言が出てくる背景は、城内氏自身に問題があるか、城内氏の支援者に問題があるか、いずれにも問題があるかである。城内氏の支援者に問題があるというのは少し説明が必要であろう。政治家がまず国民の声として受け取るのは支援者の声である。支援者がそれなりの良識を示し批判すべきものは批判していたとするならば、政治家自身がその問題の大きさを認識し慎重な対応となるはずである。支援者が行うべき批判を政治家に行わなければ、政治家自身は裸の王様となり迷走を続けることになる。」

と述べ、城内実陣営という素人集団に危うさを感じていた。しかしながらタレントを勝手に応援団に仕立て上げるというコンプライアンスのかけらも見受けられない愚行を、しかもこれほど早い時期に行うとは想像することもできなかった。「『ほとんど冷酷』と言っていいくらいの冷徹な目(笑)」で城内陣営を見ていたはずであるが、実は大甘であったわけである。私の目は未だ真贋を見抜くということに程遠いようである。

ブログ主はたいそう謙遜されているが、城内(陣営)の愚行が露呈する3日前に、それを予言するようなエントリを上げられたことは、素晴らしい慧眼だと思う。

 城内氏がブログで不適切な発言を行い、それに対して多数の批判を受けたのであれば、真正面から反論するか黙して語らずという姿勢をとるかのいずれかが適切な対応であると言えよう。それに対し城内氏がブログで「煽り」そのものの反論を行うことを許す城内陣営という集団は危機管理というものがまったくわかっていないと言える。自らに対する危機管理を適切に行うことができない者が国や国民の危機に対して適切に対応することができるはずもない。

 城内氏に必要なのはどん底に落ちて自らを見つめなおすことである。どん底の中で自ら、そして自分の周りの者を見つめ直すことが今ほど求められている時はない。その中で唐の太宗李世民に対する魏徴のような人物を見いだし招き入れるべきであろう。

もちろん、城内実が今回の件を真摯に受け止めて反省し、その結果ブログ主の書かれるような行動を取るなら、リベラル・左派にとっても真に手強い敵になるのだが、そうなればむしろをそれを歓迎したい、というより歓迎しなければならないだろう。

ただ、私がもっとも危惧するのは、今回のようなどうしようもない騒動を引き起こしたにもかかわらず、城内がそのまま当選してしまうことだ。今の自民党の嫌われ方や、静岡7区民主党が大きく出遅れたことを考えると、それがもっともありそうな可能性だと私には思われる。

こんな男が国会議員に返り咲くかもしれないと思うと、ぞっとする。