kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

一昨年の東京新聞に載った元従軍慰安婦の体験談

2005年7月29日の東京新聞に、韓国人の元従軍慰安婦の体験談が掲載されている。
http://www.tokyo-np.co.jp/kioku05/txt/20050729.html

この記事もリンクは既に切られているが、Googleのキャッシュから復元した。

記憶 戦後60年 新聞記者が受け継ぐ戦争
加害と向き合う 韓国編 “傷”うずく日本名

 「とみ」。忘れられない名前。軍慰安所の少女たちは皆、日本名で呼ばれていた。十四歳の李玉善(イ・オクソン)さん(78)は、この呼び名が嫌いだった。

 朝鮮半島東南の海辺の町、蔚山(ウルサン)。買い物に出かけた李さんが突然、見ず知らずの男たちに捕まり町から連れ去られたのは一九四二年のことだ。貨物列車で連れて行かれたのは、中国東北部、延吉の日本軍駐屯地に置かれた慰安所。管理人を名乗る男から着物と毛布を渡され、「これは借金だ。返すまで家には帰れない」と言われた。

 それまで男性と手をつないだ経験もなかった。だがすぐに畳一枚の小さな部屋で、将兵たちの性の相手を強要される日々が始まる。抵抗すれば殴られ、軍刀で刺された。軍が指示した避妊具を使わない者も多く、性病がまん延した。「病気で顔が黄色くなると、女たちはごみのようにどこかに運ばれていったよ」。李さんは言う。

 食事は毎回、トウモロコシの粉で作った粗末なパンが一つ。何度も逃げようとしたが、そのたびに見つかって激しい罰を受けた。

 脱走した少女の惨殺体を、見せしめのように見せられたこともある。「自殺したり、気が変になった女もいた。私は自分の心をどこかに置いて、殴り倒されても笑った。痛いとも言わなかった」。目を伏せて、黙り込んだ李さんの腕や太ももには、今も癒えない傷あとが幾筋も残っていた。

  ■ ■

 慰安婦とされた被害女性たちが共同生活を営む韓国・広州市の「ナヌムの家」。李さんは今、十人のハルモニ(おばあさん)と暮らす。李さんが帰国したのは二〇〇〇年六月、連れ去りから実に五十八年後のこと。両親、きょうだいは他界し、李さんの戸籍には「死亡」と記されていた。

 日本の敗戦によって解放された後も、異国にとどまった被害女性は少なくない。李さんも延吉に残り、二十八歳で朝鮮族の中国人男性と結婚する。

 「帰りたかったよ。でも列車に乗るお金もなかったし、学校に行かなかったから、家族に手紙も書けなかった」。だが、それだけが理由だろうか。

 慰安所で子宮を傷めた李さんに子どもはできなかった。「私は汚いと思っていた」と何度も口にした李さんは、多くの被害女性と同じように自分を恥じ、古里への思いを断ったのではないだろうか。

 「慰安婦になったのはあなたの選択ではありません」。帰郷を決意する転機となったのは、カトリック教会で出会った尼僧の言葉だった。李さんは入信を決める。

 「祈って、祈って、自分を強くしたいと思ったのよ」

  ■ ■

 元慰安婦の女性の多くは八十歳を超えた。証言ができるハルモニはナヌムの家でも四人しかいない。数年後、何人が慰安所のことを語り継げるのか。それは歴史の「抹殺」につながりかねない。

 九二年に訪韓した宮沢喜一首相(当時)は「『従軍慰安婦』として筆舌に尽くしがたい辛苦をなめられた方々に心よりおわびし…」と謝罪した。だが、その後の日本では「慰安婦は商行為だった」と、強制や、軍の関与を否定する主張が、政治家や学者、文化人から公然とされるようになる。

 韓国では昨年、日本の植民地下の被害を再調査する政府の「真相究明委員会」が発足した。しかし人々が記憶の風化に直面していることに変わりはない。

 「日本人は、知らなくて関心がない。韓国人は知っていても、関心が薄い」。常駐スタッフとしてナヌムの家に住み込む日本人の写真家、矢島宰さん(34)は言う。

 「毎週、ハルモニたちが日本大使館前で謝罪と補償を求めるデモをしても、独島(竹島)の領有権の方がはるかに関心事なんです」

 六月下旬。都内の証言集会に出席したその足で、李さんは初めて靖国神社を訪ねた。小さな体で巨大な拝殿の前に立つと「小泉(首相)は、ここで参拝するの?」と支援の人たちに聞いた。

 「日本の偉い人は、このおばあさんが死ぬのを待っているんでしょ。死んでも歴史は消せない」。それは忘却に追いやられようとする重たい記憶を、若い世代に託そうとする意思の言葉に聞こえた。

     ◇ 

 十九世紀後半に始まる朝鮮半島への日本の支配は、一九一〇年の「韓国併合」で確立する。“内鮮一体”の名の下、植民地とした朝鮮では、日本への同化政策が推し進められ、朝鮮の人々は戦場へと、軍需産業へと、駆り立てられていった。日本の敗戦の日まで、苦しみを与えた韓国で「加害の記憶」を聞いた。

■メモ  <従軍慰安婦> 1930年代初期から戦地・占領地の派遣部隊に軍の統制下で「慰安所」が設置され、植民地や占領地から集められた女性が、将兵らの性の相手を強制された。強姦防止、性病防止も目的だったとされる。慰安婦とされた女性は強制的連行や、就業あっせんを装った詐欺的方法で集められることが多かった。80年代末に韓国人の被害女性が問題提起したことで発覚。90年代の調査で、日本政府は慰安所への軍の関与や被害者への「強制」の事実は認めたが、国の法的責任や賠償は認めていない。被害女性は韓国・北朝鮮、中国など各地にまたがる。その総数は数万−20万人と推計され、確定されていない。民間のアジア平和国民基金の「償い金」支払い事業は2007年3月に終了予定。

社会部 佐藤直子

東京新聞 2005年7月29日)

この記事も、岩波書店から出版された「あの戦争を伝えたい」に収録されている。
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