kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

一昨年の東京新聞に載った731部隊元隊員の体験談

ネット右翼はどこまでも731部隊の犯罪を否定しようとしているようだが、2005年7月26日の東京新聞にも、731部隊元隊員の証言の記事が出ている。
http://www.tokyo-np.co.jp/kioku/txt/20050726.html

リンクは既に切られているが、例によってキャッシュがGoogleに残っている。そこから復元した。

記憶 戦後60年 新聞記者が受け継ぐ戦争
加害と向き合う 中国編 <下> 秘密に縛られた半生

 ペストに感染させられた中国人捕虜の男性は、手足を固定された解剖台の上でもがいた。軍医のメスが胸元から下腹部をだ円にえぐる。内臓が露出する。男性は「クイズ(鬼子)」と叫んで息絶えた。

 一九四二年十月。中国ハルビン市南方の平房(ピンファン)に設けられた関東軍防疫給水部、通称「七三一部隊」本部の解剖室。切り刻まれた男性を前に、篠塚良雄さん(81)=千葉県八日市場市=のひざは震えた。三九年五月に十五歳で部隊の少年隊員になって初めての生体解剖。心臓、腎臓、肝臓…。取り出された臓器を一つずつシャーレに塗った。

 中国人、ロシア人らの捕虜たちは「マルタ(丸太)」と呼ばれ、生きたまま人体実験の材料とされた。各種の細菌による感染発病の経過は詳しく分析され、そのデータから、強力な細菌兵器が生み出された。

 三人目の解剖で篠塚さんは、人を殺すことに痛みを感じなくなった。だが五人目の解剖の後、「辞めたい」と上官に申し出る。良心の呵責(かしゃく)からではなく、死の恐怖から逃げるために。研究中に感染し、命を落とした仲間のようにはなりたくなかった。四三年七月、民間の研究室に移った。

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 部隊は中国南部の浙江省湖南省などで細菌戦を展開。ペスト菌に感染させたノミを飛行機でまいたり、コレラ菌を井戸に入れた。だが四五年八月九日、ソ連軍の対日参戦で敗戦が決定的になると、部隊は混乱に陥る。国際条約で禁じられた細菌戦や、人体実験の秘密を守るために奔走した。

 「残っているマルタは倉庫に入れられ、毒ガスで殺された。二百人ぐらいはいた」

 総務部の下士官で運転手だった山本裕さん(85)=仮名、千葉県在住=は仲間からそう聞かされた翌日、特設監獄が入った建物にトラックで向かうよう命じられた。

 途中、中庭から上がる黒煙を見て嫌な予感がした。荷台に積み込まれたのはやはり、焼かれた「マルタ」の骨だった。骨を捨てる松花江までの道のり。「自分は実験にも、殺害にもかかわってない」と何度も言い聞かせた。

 日本に引き揚げる貨車の中、妻は女の子を産んだ。だが帰国後、この子が四歳で亡くなると、タクシー運転手となった山本さんは、道端に居もしない人影を見るようになる。その度に、かつて特設監獄で見た五歳ぐらいのロシア人の少女と母親のことが浮かんだ。

 「子どもまで殺してしまった罪なのか−」。もう、「関係ない」と自分を納得させることはできなかった。それでも、秘密厳守の“掟(おきて)”に縛られ、事実すら語れない長い時間を過ごす。

 人影はついに寝ている時にも現れるようになった。「閣下、幽霊が出るんです」。耐えきれず、近くに住む細菌製造の責任者だった元将校に打ち明けたのは、戦後四十五年ほどがたってからだ。「もう部隊のことを話してもいいんだ」。元将校の言葉に、親しい人に打ち明けるようになると、肩の荷が少し下りたような気がした。

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 山本さんはその後、七三一部隊の体験を進んで語ろうとする篠塚さんに出会う。

 敗戦後の中国で戦犯管理所に入れられ、「部隊でしたことの数々を見つめ直した」と篠塚さんは言った。起訴免除となり、五六年に帰国。そんな篠塚さんでも、部隊のことを人前で語り出すには定年を待たなければならなかった。

 二人は九五年、ハルビン市で開かれた「七三一部隊国際シンポジウム」に参加した。山本さんは「罪のない人々が惨死したのは悲しい」と謝罪し、知る限りの部隊の姿を語った。骨を捨てた松花江に花を手向けた。幽霊はどこかに消えていた。

 篠塚さんは、細菌戦の被害者が日本政府に賠償と謝罪を求めた裁判の証言台に立った。今月十九日、東京高裁は、旧日本軍が行った細菌戦の事実こそ認定したものの、個人の賠償請求権は認めず、請求を退けた。

 「このままじゃ終われない」。篠塚さんは決意を新たにする。「悪魔」と呼ばれた部隊が消えて六十年。日本が二度と同じ道を歩まぬためにも、語り続けることを。

 <メモ>731部隊 旧日本陸軍が1933年、中国の背陰河に創設。「防疫給水」を表向きの任務としたが、ペストやチフス赤痢などの細菌兵器の研究、開発を進めた。初代部隊長、石井四郎軍医中将の名前から「石井部隊」とも呼ばれた。38年ごろから、ハルビン市郊外の広大な特別軍事区域に、本部官舎や細菌研究室、特設監獄、約3000人収容できる隊員用宿舎などを建設。人体実験などに供された犠牲者は3000人ともいわれる。極東国際軍事裁判東京裁判)では裁かれず、米軍への実験データ提供と引き換えに、幹部が免責されたと指摘される。

社会部 田中秀樹

東京新聞 2005年7月26日)

この記事も、当ブログの下記記事で紹介した沖縄戦での集団自決の件同様、岩波書店から出版された「あの戦争を伝えたい」に収録されている。
沖縄戦「集団自決」の生き残り・金城重明さんについての東京新聞の記事 - kojitakenの日記
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