kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

東京方言(?)「オカチン」考

昨日書いた北杜夫『楡家の人びと』の話だが、読み始めてすぐに気付いたのは、舞台が青山という東京の「山の手」のはずなのに、上流階級に属する楡一族は別として、町に住む人々がべらんめえ調の言葉を使っていることだ。一例を挙げると、第一部の初めの方で、職人がこんな言葉を発している。

「あた棒よ。なにせドクトル・メジチーネといやあ、こりゃ外国(げえこく)の博士さまだ。ドクトル・メジチーネとくりゃあ、そんじょそこらにはざらにはいねえ」

「あた棒よ」と言ったり、「外国」を「げえこく」と発音する、典型的な「べらんめえ調」だが、今時こんな言葉は、東京の下町でもある程度以上の年配の人しかしゃべらないのである。25年ほど前、東京の下町出身の人から、「下町では『鯛』のことを『てえ』って言うんだ」と聞いたことがあるが、私は実際に鯛を「てえ」と発音する人にお目にかかったことは一度もない。余談だが、「あい」が「えー」に転訛する発音のパターンは、東京や東北などの東日本以外に、中国地方*1以西から韓国に至るまで広く見られるが、京阪アクセントの地方では、ごく少数の例外を除いてこの転訛はほとんど見られない。

近畿、中国、四国各地方の居住経験があり、父方のルーツが中部地方である私は、そのいずれの地域においても方言が衰退している(関西も例外ではない)ことをよく知っているが、東京もまたその例外ではないことを日々痛感している。江戸っ子の言葉はもはや「死語」となり、現在の東京は「標準語」なる中央集権的な人工言語に完全に制圧されているのである。

『楡家』の話に戻ると、山形から出てきた徹吉(斎藤茂吉がモデル)が上京してきた時、楡家の女中から、「東京ではお餅のことをオカチンと申します」と言われたというエピソードが出てくる。これはもちろん斎藤茂吉の実体験に基づく。青空文庫に茂吉の随筆「三筋町界隈」(1937年)が収録されているので、以下引用する。


斎藤茂吉 三筋町界隈 より

 私が東京に来て、連れて来た父がまだ家郷に帰らぬうちから、私は東京語の幾つかを教わった。醤油(しょうゆ)のことをムラサキという。餅(もち)のことをオカチンという。雪隠(せっちん)のことをハバカリという。そういうことを私は素直に受納(うけい)れて今後東京弁を心掛けようと努めたのであった。

 まえにもちょっと触れたが、上京した時私の春機は目ざめかかっていていまだ目ざめてはいなかった。今は既に七十の齢(よわい)を幾つか越したが、やをという女中がいる。私の上京当時はまだ三十幾つかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」と私に教えた女中である。その女中が私を、ある夜銭湯に連れて行った。そうすると浴場には皆女ばかりいる。年寄りもいるけれども、綺麗(きれい)な娘が沢山にいる。私は故知らず胸の躍るような気持になったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかも知れない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことが分かり、女中は母に叱(しか)られて私は二たび女湯に入ることが出来ずにしまった。私はただ一度の女湯入りを追憶して愛惜(あいせき)したこともある。今度もこの随筆から棄(す)てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。

後者には笑ってしまうが、江戸時代の日本では混浴が当たり前であったとの、渡辺京二著『逝きし世の面影』*2で読んだ話も思い出される。

それはともかく、「オカチン」という言葉を私は知らなかった。
オカチンの意味や使い方 Weblio辞書 には、

オカチン 餅を女言葉で言う方言

とあるから、確かに東京で使われていたことはあるのだろう。ところが、さらに調べてみると、九州でも「オカチン」は用いられているらしい。さらには、こんなのまで見つけた*3

知り合いの関西出身の女性の方は、普段は標準語ですが「チリメンジャコ(シラス干し)」とか「オカチン(餅)」など思わぬところで無意識に関東地方で使わない単語が出てしまうようですが、これはまだ単語までは習熟していないためだと思います。

さすがにちりめんじゃこ云々は東京でもそう言うだろ、これってトンデモ回答じゃなかろうかと一瞬思ったのだが、「(お)かちん」が関西で餅を意味する言葉として用いられているのは事実であった。

Hage Choroge:So-netブログ(2008年9月27日)より

かちんうどん 粘ります?! [郷に入ればガタロー]


大阪のうどんのメニューに
「かちんうどん」というものがあります。
うどんに餅がのっています。


「かちん」は
御所ことばですよね。
つまり宮中の女官のことば
いいかえれば女房詞(ことば)でしょうか。


皇室関係の書物をめくれば散見されます。


かちん・おかちん=餅
おやきかちん=焼き餅
あぶらのかちん=揚げ餅
あかのかちん=小豆餅
ひしがちん=菱餅


広辞苑
かちいい(交飯 搗飯)ということばが載っていました。
餅のこと。
「つきまぜた飯」ということらしい。


「かちいい」が「かちん」になったのでしょうか。


でも!
現代の京都人は
餅を「あも」といっていませんか?!
(後略)

「あも」という(私にとっての)新たな謎が発生したが、「かちんうどん」なら遠い昔の記憶がかすかにある。

ゴハンエッセイ おいしい人生 - FC2 BLOG パスワード認証(2013年11月28日)より

かちんうどん


一日中外出。防寒装備は整えて来たはずだけど、それでも身体が冷えて、温かいものを求めて麺処へ飛び込む。
晩秋から冬にかけて、個人的に美味しいと思うのは鴨なんばとかちん。だいたいこの二択で決める。鴨なんばは鴨肉と、ねぎが入っている「鴨南蛮」。関西では「鴨なんば」と表記されるお店が多い。昔、大阪の難波がネギの産地だったからしい。
今日注文したのはかちんうどん。「かちん」とは、上方の女房言葉で「餅」の意味。焼いたお餅入りの、いわゆる力うどんだ。でも、かちんの方が優しく可愛い響きだと思っている、何となく。あと「雑煮(うどん出汁を関東風のすまし汁に見立てている)」と銘打つお店もある。温かいおつゆとうどん、香ばしく柔らかいお餅でパワーチャージ。カーボローディング感が若干否めないが、おかげで午後の予定も無事乗り切った。(後略)

そんなわけで、「オカチン」とは「搗飯(カチイヒ)」をルーツとする上方の女房言葉に丁寧語の「オ」がついて東京の「餅を女言葉で言う方言」になったもののようだ。東京方言には上方にルーツを持つ言葉が少なくないとは聞いているが、「オカチン」もその一つだったようだ。それを山形から上京した斎藤茂吉が使っていたかと思うと、なんだか可笑しい。

それにしても、こういうことがすぐにわかるのだから、ネットとは便利なものではある。

*1:たとえば岡山では「鯛を炊いておいて」を「てえ、てーてーてー」と発音するという、地元では有名な笑い話がある。

*2:某布引洋が書いているエキセントリックなサヨクブログとは無関係であることはいうまでもない。

*3:http://okwave.jp/qa/q112669.html?page=2