kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「黒い笑い」は「差別用語」か

https://twitter.com/horiuchiyo/status/335791400014716929(2013年5月21日)

堀内良彦
@horiuchiyo

新訳『ドクトル・ジヴァゴ』考|辺見庸氏(北海道新聞5月17日夕刊) レーニン毛沢東を近くで見たことがある。防腐処理された遺体、つまりばさばさの剥製であったので面白いわけもない。この剥製のために何千万人もが命をおとしたのかとおもうと黒い笑いがこみあげ、すぐに唇がこごえた。(続)


https://twitter.com/horiuchiyo/status/335791611588009984(2013年5月18日)

堀内良彦
@horiuchiyo

続)かつて戦争と革命の時代があった。日本でもあった。そうした時代は、後に剥製とされたり死刑に処されたりする「偉人たち」によってのみささえられたのではない。マジョリティーとしてのおびただしい人民つまり付和随行者とメディアの雷同があってようやく維持されたのである。


上記の文章は、下記の本の263頁に出てくる。



工藤正廣氏の新訳になるボリース・パステルナーク著『ドクトル・ジヴァゴ』(未知谷)の書評である。辺見庸は、パステルナークが書いた「戦争と『個』」について書いている。


ドクトル・ジヴァゴ

ドクトル・ジヴァゴ


上記にリンクを張ったが未読。なにせこの本、8400円もする。但しこの小説は25年前に江川卓訳の新潮文庫版で読んだことがある。江川卓といってもプロ野球・読売の元選手の「えがわ・すぐる」ではなく、2001年に亡くなったロシア文学者の「えがわ・たく」氏である。この新潮文庫版は現在は絶版になっているはずだ。


辺見庸の本には、同じ本について書かれた2013年2月3日付の『日本経済新聞』掲載の文章も載っているが、ネット検索をかけたらその他に下記の書評も見つけた。こちらは本には収録されていない。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2013050502000180.html

ドクトル・ジヴァゴ ボリース・パステルナーク 著


◆目くるめく風景、人の運命

[評者]辺見庸 作家。著書『たんば色の覚書』『水の透視画法』など。

 すぐれた物語は「永遠の貌」をもたず、読まれる時によって、面貌がおどろくほど変幻する。一九五〇年代に発表されたパステルナーク著『ドクトル・ジヴァゴ』を七〇年代に邦訳で読み、このたびは工藤正廣氏の新訳を繰って目をみはった。時代的制約を感じさせず、いま現在そしてこれからめぐりくるだろう新たな歴史の怒濤(どとう)と、ひとがまっとうな「個」でありつづけることの困難を、かつてよりくっきりと黙示しているからだ。

 第一次大戦からロシア革命前後の奔流を、医師で詩人のジヴァゴがどう生きて、なにに苦しみ、だれを愛し、いかに死んだか。せんじ詰めればそれを追った、こよなく詩的なこの大長編が東西冷戦下、「ジヴァゴ事件」として語りつがれる大騒ぎになった。

 作品はロシア革命の暗部を隠さなかったために発禁となり、イタリアで刊行され、著者は五八年、ノーベル文学賞に決定するも、ソ連作家同盟がかれを除名、ソ連当局も国外追放を示唆したため、パステルナークは受賞辞退に追いこまれる。

 ロシア革命礼賛者の多かったこの日本でも、同著をよく読みもせずに「反共作品」視したむきが少なくなく、偏見が消えたのは冷戦構造崩壊後であろう。言いかえれば、『ドクトル・ジヴァゴ』は新たな超弩級(ちょうどきゅう)の激動が予感されるいまこそ、くもりない目で読まれるべきである。

 詩と散文のつづれ織りであるこの作品は、詩人にしてロシア文学者の工藤氏による四十年におよぶ労苦をへて、いまふたたびの命をふきこまれた。

 「良心が汚れていない者は誰もいなかった」「彼(ジヴァゴ)は緩慢に狂っていった」の文にわたしは今昔を忘れ、緩慢に狂ったのはジヴァゴか時代かと自問する。目を洗われるようなロシアの風景描写がひとの運命の移ろいにかさなり、いくども眩(くるめ)いた。ただし、本が高額にすぎる。廉価版が望まれる。

Boris Pasternak 1890〜1960年。旧ソ連の詩人・小説家。著書『わが妹 人生−1917年夏』など。

(工藤正廣訳、未知谷・8400円)

◆もう1冊

 『パステルナーク全抒情詩集』(工藤正廣訳・未知谷)。『初期』から未刊詩集『晴れよう時』まで全七冊の抒情詩。解説付き。

東京新聞 2013年5月5日)


ところで。
「黒い笑い」とは、果たして「差別用語」なのであろうか。