kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「自分の外に『主人』を持たない」(醍醐聰・東大名誉教授)

宇都宮新旧選対vs.澤藤統一郎弁護士の件に関するコメントの紹介から。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20140118/1390013161#c1390050697

id:green_woods 2014/01/18 22:11
 kojitakenさんは現在有権者だと思うのですが、「今回選挙は寝る」と言われる気持ちはよく分るつもりです。いままでほとんどこのブログを見てはいなかったのですが、kojitakenさんの潔癖感には親近感を覚えます。
 その上でのことなのですが、澤藤弁護士が言っている「憲法会議の言論弾圧」については、ある意味で昔からよく知られたことであり、澤藤氏が今頃になってウブにも「初めて気がついた」という感じで批判しているのは、パフォーマンス以外の何ものでもないと思います。彼は、昨年4月(?)頃から、日民協のホームページ内の1ページから現在のブログを「独立」させていますが、それは、その後彼がブログで展開する言説が日民協に巻添え禍を起こさせないように「配慮」したものでしょう。彼は同協会の事務局長を歴任していたのですから…。その「配慮」の質・内容と、今回の憲法会議による「弾圧」とは、ほとんど同じであるにも拘らず、彼はそれを批判しているわけです。自分で予測しておいて、予測通りになった事態の展開を「言論弾圧だ!」と批判するのは、決してフェアではないと思います。世の中には「傾向企業の法理」というものもあるのですから、憲法会議の機関紙の編集権というものも考慮せざるをえません。
 こうした「ムラ社会の論理による異端者排除」それ自体をなくすためにも、政治情勢を進展させる必要はあると思います。現在の共産党には、人間的にまったくおかしな連中が多数いて、指導部さえその例外ではない(私が接している末端の人間でも同じ)と思っていますが、結局は「より悪くない選択肢の選択」でしかないと思います。「寝て」いても、残念ながら事態を動かすことはできませんし、それは、「宝くじを買った人だけが当選できる」ということと似ています。宝くじに「当る」確率は極めて低いでしょうが、宝くじを買わなければ、当る確率は確定的に「ゼロ」です。
 現在は、悔しさを腹に収めて、「当りそうにない宝くじを買う」という選択をするのも、民主主義の真の発展に沿うのではないか思っています。


http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20140118/1390013161#c1390053129

green_woods 2014/01/18 22:52
 少しだけ付言しますと、私自身、「少数意見の異端者」扱いをされ排除された経験があるので、憲法会議の担当者のメンタリティはよく分るのです。しかし、澤藤弁護士のブログを見る限り、彼はむしろ、苦渋に満ちつつ丁寧な対応をしている方だと感じます。そして、澤藤氏が、この問題が出来するまで、このような「ムラの論理」に対していかなる態度をとっていたのかが、問われるべき事柄から欠落されてはならないと思います。彼は「人を見る目の欠如」を自ら嘆いていますが、その目の欠如とはいつからのことを言っているのでしょうか。宇都宮健児氏についてだけ「眼鏡違い」だというなら、それは噴飯物です。
 自ら「間違った」というなら、どこをどのように「間違ってきたのか」を誠実に語ってくれない限り、同意することは難しいといわねばなりません。

私は法学の分野には全くの門外漢ですが、ふと「原子力ムラ」の「御用学者」といわれた小佐古敏荘氏が、突如別人のようになって児童の20ミリシーベルト/年の被曝許容量を設定した当時の菅直人政権を批判した件を連想しました。当時、小佐古氏の教え子の民主党衆院議員(当時。原発関係の技術者上がりで小沢系の原発推進派議員)が「政局」にする狙いが取り沙汰され、私もそれを疑っていましたが、その後の経緯を見るとどうやら邪推だったらしく、小佐古氏にはそのような邪な意図はなく、自らの信念に従って意見を述べたもののようです(小沢系の原発推進派元衆院議員には邪な意図があったようですが、彼は一昨年の衆院選で落選しました)。但し、その後も小佐古氏が、原爆症の認定で国側の「御用学者」として、被爆者約25万人のうち約2000人だけしか「原爆症」と認定されない評価システムを作ったという、悪名の高い過去の行状に関して自らの非を認めたとは寡聞にして知りません。

澤藤弁護士を(元)「原子力ムラ」の人間と一緒にするとは何事か、と怒られるかもしれませんが、green_woodsさんが言われるような体質があるなら(実際あるのだろうと確信しますが)、それは「護憲(派)ムラ」としか呼びようのないしろものだと私は思います。ただ、小佐古氏の菅政権批判が、それ以前の彼の行状とは別にして評価されるべきであるのと同じように、今回の澤藤氏の一連の「告発」は評価に値すると考えます。

なお、この件に関して、醍醐聰・東大名誉教授の下記ブログ記事に強い説得力を感じます。

特に記事の後半(以下に引用)。

自分の外に「主人」を持たない自立した個人こそ、民主主義社会の支柱
 後者のような動機からすれば、私の見解を特定の関係者にだけ伝えるということは、動機を実行する方法として不相応である。特定の主義・信条で集まった政党、団体であっても、個人の間であっても、さまざまな問題をめぐって、初めから常に意見が一致しているということは、よほどマインドコントロールが強固で自立した個人の存在が不可能な組織でないかぎりあり得ない。むしろ、異なる意見を相めぐり合わせて、各人が知見を広げ、自分の思考力、判断力を磨き、鍛錬することが、政党なり団体なりの構成員の意欲、組織外の人々への信頼と影響力を広げる基礎になるはずである。少なくとも私は、自分の判断なり意見表明をするにあたって、耳を傾ける先達、友人はたくさんいるが、自分をコントロールする「主人」なり「宗主」は持ち合わせていない。そういう「主人」持ちの人間を私は尊敬する気になれない。
 もちろん、私も、問題によっては政党なり団体なりの内部で議論をし、解決を見出するのが適切だと思う。だから、なんでもかんでもオープンにすべきといった極論をいうつもりはない。
 しかし、今回、私が提起した東京都知事選の候補者選考とか、選挙母体の運営のあり方といった公的な問題に関しては、さまざまな意見を特定の団体なり、グループなり、関係者の間だけにとどめず、できる限りオープンにし、極力すべてのメンバーに、異なる意見に出会う機会、自分の意見を述べる機会を開くのが言論の自由を支柱にした民主主義の本来の姿だと考えている。
 「身内のごたごたや弱点を組織外に広めるのは支持者を離反させ、対立する陣営に塩を送るようなものだ」という意見をよく聞く。確かに、問題によっては―――個人のプライバシーが絡む問題など―――団体なり組織の内で議論をし、解決するのが適切なこともある。また、異論を提起する場合もその方法に配慮が必要である。しかし、内々で議論をするのが既成のマナーかのようにみなす考えは誤りである。むしろ、組織内の意見の不一致、批判を内々にとどめ、仲間内で解決しようとする慣習や組織風土が、反民主主義的体質、個の自立の軽視、身内の弱点を自浄する相互批判を育ちにくくする体質を温存してきたのではないか。


異なる意見との出会い・討論が思想の硬直化を防ぎ、対話力を鍛える
 往々、日本社会では同じ組織メンバー間の争論を「もめごと」とか「内ゲバ」とか、野次馬的に評論する向きが少なくない。しかし、「もめごと」と言われる状況の中には上記のとおり、組織(革新陣営を自認する政党や団体も例外ではない)が抱える体質的な弱点――少数意見の遇し方の稚拙さ、反民主主義的な議論の抑制や打ち切り等――が露見した場合が少なくない。その場合、組織内の少数意見を組織内ですら広めず、幹部など限られたメンバーだけにとどめて「内々に」処理しようとする場合もある。あるいは、組織外から寄せられた賛同や激励の意見は組織内外に大々的に宣伝するが、苦言や批判は敵陣営を利するとか、組織内に動揺を生む恐れがあるという理由で、組織外はもとより、組織内でさえ広めようとしない傾向が見受けられる。これは大本営発表と同質の情報操作であり、組織内外の個人に自立した判断の基礎を与えないという意味では近代民主主義の根本原理に反するものである。
 この世には全能の組織も全能の個人も存在しない。自らに向けられた異論や批判にどう向き合うか、それをどう遇するかはその組織にどれだけ民主主義的理性が根付いているかを測るバロメーターである。その意味では、組織内外から寄せられた異論、批判、それに当該組織はどう対応したかを公にすることは、その組織に対する信頼を多くの国民の間に広げるのに貢献するはずであり、相手陣営を利することにはならない。また、異なる意見、少数意見も尊重し、真摯な議論に委ねる組織風土を根付かせることこそ、「自由」に高い価値を置く多くの国民の共感を呼ぶと同時に、組織構成員の対話力を鍛え、組織の影響力を高めるのに貢献するはずである。このように考えると、組織内の問題を公にする行為を「利敵行為」というマイナス・イメージの言葉で否定的にとらえるのは偏狭な思考の産物といえる。
 私は、今回の問題に限らず、これからもこうした理性を支えにして、必要と考えた時に自分なりの見解を伝え、行動していきたいと考えている。(後略)

(『醍醐聰のブログ』2014年1月12日付記事「『利敵行為』論を考える(1)」より)