先週日曜日(1/28)に公開した下記記事のコメント欄より。
記事からまことん氏の下記Xを含む3件のXのポストをリンクした。それに対して弊ブログはそのポストを肯定的に(=日本共産党に対して批判的に)論評した。
社会では「インクルーシブ」(包摂)の実現なんてことが、綺麗事な面はあれど、企業にも求められているのに、一方の政党は、意見の違う者を除名したり、多勢の前で特定党員を強い口調で非難する幹部を「パワハラではない」と擁護。しかも、それが左派。左派やリベラルの方が、時代から何周も遅れている。
— まことん┃はたらく人の視点@社労士受験’24年 (@makotonch) 2024年1月26日
それに対する金柑氏のコメントが下記。私の印象では氏は立ち位置がよくわからない人で、泉健太支持者と思われ、右派に親和的なコメントをするかと思えば、下記のように共産党執行部を擁護するかなコメントを発する。
金柑
上記コメントは分派の禁止を含む民主集中制を定めた共産党の綱領を論点としているとみて良いだろう。
弊ブログは以前にも、そして今回の共産党・田村智子現委員長が共産党大会で発した大山奈々子神奈川県議に対する批判の言葉の件に絡めても、民主集中制の全部に問題があるのではなく、その中で分派の禁止が定められていて、共産党が今に至るもそれを木主していることが問題だと言ってきた。
かつての日本社会党の綱領には民主集中制の規定はあっても分派禁止は含まれていなかった。しかし共産党の綱領にはそれがある。それには歴史的経緯のためだ。共産党は戦前には非合法政党であり、その時代に「スパイM」こと飯塚盈延(いいづか・みつのぶ, 1902-1965)という特高のスパイによって党が壊滅的な打撃を受けたことがある。その経緯から「鉄の規律」が必要不可欠だった。だから、ソ連共産党にルーツを持つ、分派禁止条項を伴う民主集中制が導入されたことには必然性があった。いうまでもなく革命は命懸けだから「鉄の規律」が絶対に必要だったのだ。
しかしソ連共産党ではヨシフ・スターリン(1878-1853)がこの分派禁止条項を悪用して党内で大量の粛清を行なった。このことから読み取れる歴史的な教訓は、非合法の革命政党だった頃には必要不可欠だった分派禁止条項を伴う民主集中制の規定が平時においては執行部の放恣な権力行使を正当化する根拠になってしまうことだ。
その弊害が日本共産党で可視化されるようになった。だから党内からも党執行部に対する批判が噴出し始めたのではないだろうか。大山奈々子県議の事例は以上の流れから考察されるべきだと思う。
このことが、昨日いただいたsuterakusoさんの下記コメントにつながると私は思う。
もしかして、こちらのコメントに反応しなかったことも心配された理由の一つなのかな?とも思うので、いちおう、反応すると、憲法の役割は権力を縛ることですよねと誰かが言ってもいいのかなと思います。
フランス人権宣言「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」で確立された原則ですね。奇しくもこの文言と「縛る」でググると、次のべーじがヒットしました。おそらく、共産系の生協だと思います。
https://kagawa.coop/2021/wp-content/uploads/2019/07/2019-074-1.pdf
コメント最後の「共産系の生協だと思います」との推測は当たりで、検索語「日本医療福祉生活協同組合連合会 共産」でググると、下記2010年のしんぶん赤旗の記事がヒットした。
コメントから張られたリンクの内容を以下に引用する。
憲法って何? 誰が守るもの?
憲法とは何か
この問いに対する答えは、いくつか考えられます。 例えば、憲法という名前で呼ばれる成文の法典のことだという答えも正解です。これは 「形式的意味の憲法」と呼ばれるものです。
これに対して、法律の内容やその性質に着目した場合、憲法とは「国の基本法」、「国家の根本的な組織や作用を定める法規範」であるという回答もありえます。これは「固有の意味の憲法」と呼ばれるものです。この意味の憲法は、いかなる時代のいかなる国家にも存在するものです。
さらに、国家の根本的な組織や作用を定める法律であって、近代立憲主義の諸原理に 立脚したものを憲法というのだという立場があります。近代立憲主義というのは、専断 的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという考え方です。そこにおける憲法とは、自由権保障、国民主権、権力分立などの内容を伴っているのがその特徴です。この立場から見た憲法は、「立憲的意味の憲法」または「近代的意味の憲法」といわれています。
みなさんがイメージする憲法というのは、どういうものでしょうか。憲法という言葉から、この「立憲的意味の憲法」を思い浮かべた人が多いのではないかと思います。
それほど、今の日本社会では、人権、自由、平等という価値が普遍化しているという ことだと思います。
革命や戦争から生れた憲法
しかし、人権、自由、平等は、決して昔から当然のものだったわけではありません。 王様や豪族が支配していた社会では、民衆の自由や人権は保障されていませんでした。
立憲主義という考え方は、17世紀のイギリス、18世紀のフランス、アメリカなど の近代市民革命を通じて確立してきたものです。それまでの絶対王政の権力による圧政 からの解放を求めた人々は、自由と平等を基調とする社会を築くため、そして、権力が 強大になりすぎて人々の権利を抑圧することのないよう、憲法を制定したのです。
こうした憲法の趣旨を最もよく示しているのは、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法を持つものではない」と規定する1789年のフランス人権宣言16条です。近代立憲主義の憲法とは、端的にいえば、国家権力を制限して国民の権利・自由を守ることを目的とする憲法のことです。
日本国憲法の基本原理
日本国憲法も、近代立憲主義の憲法です。日本国憲法は、「政府の行為によって」「戦争の惨禍」が起こったことを反省し、そうしたことを二度と起こさないとの決意とともに、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つを基本原理とすることを宣言し ました(前文)。
主権が国民にあるということは、基本的人権の保障と結びついています。専制政治の下では、基本的人権の保障は完全とはなりえません。民主主義政治の下で、基本的人権の尊重と確立を図ることとしたものです。
憲法の基本目的が、国家権力から国民の権利を守ることにある以上、憲法の規範的拘束が国家の権力担当者に向けられていることは当然です。つまり、憲法の諸ルールは、国家の権力担当者が、権力を振りかざして国民の人権を抑圧することのないように定められたものなのです。日本国憲法99条は、天皇、摂政、大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に、憲法を尊重し擁護する義務を課しています。これは以上のような憲法の性格上、当然のことを定めたものということになります。
安倍晋三首相は、憲法は権力を縛るものだというのは「王権の時代や専制主義的な政府に対する憲法の考え方」であって、古い考え方であり、「民主主義国家の憲法は、国の姿・形を書き込むことだ」と答弁しました。これは、立憲主義の考え方にそぐわない発言と言わざるを得ません。
回答 旬報法律事務所 今村幸次郎 弁護士(日本医療福祉生活協同組合連合会 理事)
URL: https://kagawa.coop/2021/wp-content/uploads/2019/07/2019-074-1.pdf
回答者の今村幸次郎弁護士について、下記Xがヒットした。
今村幸次郎弁護士は、自由法曹団の現在の幹事長みたいね。
— 狸穴猫/松村りか (@mamiananeko) 2023年9月9日
弁護士ドットコムの自己紹介ページに、素敵なお話が書いてあった。…
私は最近、ブッダや老子の本をよく読みますが、私たちの仕事にも共通していえる大切なことは、「話しかけやすく、穏やかで、威張らない人でいること」ではないかと思います。
というのは確かに印象的な言葉だ。いまどきの共産党系の法曹家は「宗教はアヘンだ」などとは言わない。かつては漢籍に親しむ人たちには保守の人士が多かったが、いまどきの右翼(極右)はやたらと漢籍を排斥したがる。なんと軽佻浮薄な連中かと空いた口が塞がらないのだが、だからこそ現元号は国書にルーツを持つ初めての元号として定められた。下記に当時の朝日新聞デジタルの記事をリンクする。記事には残念ながら弊ブログのNGワードが含まれる。
そのくせ現元号は日本語の古来の発音には含まれなかった「語頭のラ行」が堂々と含まれる。噴飯ものである。余談だが「李」は北朝鮮では「リ」だが韓国では「イ」だ。ハングルの文章の語順は日本語と全く同じだから機械翻訳の確度が中国語や欧米語とは比較にならないくらい高い。つまり、朝鮮半島、特にその南部の言葉と日本語との関係は非常に近いと思われる。
以上の経緯と、現元号を決定したのが安倍晋三政権時代であることから、弊ブログは現元号を原則として用いず、引用文以外での現元号の使用を原則として禁止している。もちろんひらがな表記であろうが。
それはともかく、現在の共産党系法曹家が漢籍に親しむ一方、自称「岩盤保守」の人士たちとやらが漢籍を排除する姿には、かつて共産党系憲法学者・長谷川正安(1923-2009)が書いた『日本の憲法 第三版』に「立憲主義」の4文字の文字列が含まれていないこと(下記リンク参照)を思えば、まさに隔世の感がある。
ここまで見てきた通り、党の系列の法律家たちの考え方の主流は、かつてとは大きく変化している。
しかし共産党は党外では立憲主義をとるけれども党内では(分派禁止条項を含む)民主集中制をとる(とり続ける)という。
これは「土台が上部構造を規定する」というマルクスの言葉に反する姿だというほかないのではなかろうか。
弊ブログは昨年6月3日付の下記記事に
私は上記ブログ記事によって神谷氏が松竹氏の処分に反対したがその意見が容れられずに批判・否定されたので自らの意見を「保留」したことを知った。
と書いた。
私は当時神谷氏のブログ記事を読んで、批判・否定された自らの意見を「保留」して活動する神谷氏に鋼のように強靭な精神力を認めてそれに感嘆したのだった。
しかし党は氏の「意見を保留する権利」すら認めないのではないかと思われる対応をした。そのような党のあり方には安直さしか感じなかった。放恣な、というべきかはたまた恣意的(志位的?)というべきか。とにかく全く感心しなかった。というより呆れ果てた。
やはり党の統治原理としても立憲主義的な権力を拘束する要素が必要なのではないか。
なお、そのような統治原理は自民党にも立憲民主党(立民)にもない。だから権力工作を得意とする人たち(岸田文雄や泉健太)が相当に恣意(志位)的な党内統治をしているように私には見える。自民はもう論外だが、立民についていえば、やっぱり補選が確定的になった今に至るまで東京15区の総支部長を決めていないではないかと、身近な事柄についても怒り心頭に発している。
そんな中、共産党がいち早く立憲主義的な党の統治原理を導入できれば自民にも立民にも先行できるばかりか、立憲主義的な政党の統治原理など維新にも民民にも新選組にもないし(というよりこれらの政党の統治原理は立憲主義とは真っ向から反する)、海外の例も思いつかないので(あるのかもしれないがど素人の私は知らない)、やれば本当に画期的なことになるのではないかとも思う。
でも、分派条項のない政党にもできないことが、いまだに分派条項に固執する政党にできるはずないか。まあそうなんだろうな。
党の綱領は憲法のような役割ですから
(どの政党も綱領の解釈権が執行部から実質的に独立してるかの疑義はありますが。)
社会の変化を理由に正当な手続き以外の解釈の変更を是とするなら、憲法においても同じ論理を使えという批判が改憲派からでるでしょう。
そこらへんを論理武装せずに言いたいことを言ってるのは慎重さが足りないと思う。