kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「分派の禁止」は本当に「民主集中制」の必然の要請なのか

 民主集中制の件だが、少し前に読んでこのブログの記事でも紹介した加藤哲郎の解説がなかなか示唆的だったので考え続けている。

 加藤の解説によると、非合法組織であったが故にもともと集権的な特徴を持っていたロシアの革命組織にレーニンが西欧風「民主主義」を導入しようとしたのが民主集中制だという。だから「批判の自由と行動の統一」と定式化された。この言葉は弁証法を思わせると素人ながらに思う。

 ところが、

革命勝利後の内戦と干渉戦争のなかで、またソビエト権力における共産党ボリシェビキ)一党支配の事実上の成立によって、民主集中制は第10回党大会(1921)の「分派の禁止」決議と結び付き、「一枚岩の党」「鉄の規律」「軍隊的規律」「上級の決定の無条件の実行」といった「集権主義」的契機を強調するものとなり、これがコミンテルンの「加入条件21か条」にも明記されて、各国共産党を拘束する組織原理へと国際化された。

と加藤は書く。要するに「行動の統一」から派生した「分派の禁止」を表に出すようになって再び集権主義が中心のあり方に逆行してしまった。

 この「分派の禁止」こそ癌ではないか。「分派の禁止」は「行動の統一」とイコールではなく、前者は後者の拡大解釈ではないかと私には思われる。だから「分派の禁止」は本当に「民主集中制」の必然の要請なのだろうかと考えるようになった。

 前にも書いた通り松竹伸幸氏の安全保障の政策を私は支持しないが、氏の組織論は大いに支持する。氏は共産党による除名処分に異を唱えようとしている人だから、ブログ記事その他で「分派を禁止した共産党の規約はおかしい」とは書かないが、それを示唆する文章はたくさんある。弁護士会だったかでも派閥はできると聞いた云々の文章がその例だ。他党を見ると、立憲民主党では小池百合子に排除された時の旧立民のメンバーたちと希望の党経由でやってきた泉健太代表を含むメンバーとでは派閥が異なり、対立関係も見られる(現在は泉が「内弁慶」的に押さえ込んでいるのであまり表面に出てこないが)。また×××新選組では最近正式に党(組)の構成員になった長谷川羽衣子を含む緑の党系の人たちとそれ以前から党にいる保守派の人たちとの間で明確な派閥抗争が観察される。しかしそれをもって両党の執行部が反対派を除名したりはしない。あの絶対的な独裁者である山本太郎ですらそうだ。

 このように考えながらたとえば松竹氏の2月13日付けブログ記事などを読むと、共感しないわけにはいかない。以下に引用する。

 

ameblo.jp

 

 公表されている文書では私の除名理由が4つにわたって述べられています。1回のブログ記事で1つずつ反論していきます。

 

「(1)松竹伸幸氏は、1月に出版した本のなかなどで、「党首公選制」を実施すべきと主張するとともに、党規約にもとづく党首選出方法や党運営について、『党内に存在する異論を可視化するようになっていない』、『国民の目から見ると、共産党は異論のない(あるいはそれを許さない)政党だとみなされる』などとのべています。『党首公選制』という主張は、『党内に派閥・分派はつくらない』という民主集中制の組織原則と相いれないものですが、松竹伸幸氏が、この主張と一体に、わが党規約が『異論を許さない』ものであるかのように、事実をゆがめて攻撃していることは重大です。」

 

 これは、論理が成り立っていません。最後の結論部分で、私が「わが党規約が『異論を許さない』ものであるかのように、事実をゆがめて」いると述べていますが、これは事実と異なります。私は、今回出版した本のなかで、共産党が「異論を許さない」どころか「異論が許されている」事実、「意見の違いがあって議論されている事実」をたくさん指摘しているのです。共産党員にはみんな個性もあり、独自の意見もあり、活発に議論されていることを描いています。

 

 私が所属する支部でも、私だけでなく誰もが自由に意見を述べます。この間の国政選挙についいての中央委員会の総括などは格好の批判の材料であり、志位さんがいつまで党首にとどまるのだという声も頻繁に出ています。

 

 しかし、同時に私が指摘しているのは、こんなに異論が存在しているのに、それが外には出されないので、異論のない政党であるように「みなされてしまう」ことです。だからこそ、この「理由書」だって、前段では私の主張から、「国民の目から見ると、共産党は異論のない(あるいはそれを許さない)政党だとみなされる」という箇所を引用せざるを得ないのです。

 

 私を処分した側は、私が共産党を「異論を許さない」政党だと批判している箇所を見つけたかったのでしょうが、何人、何十人もが目を皿のように読んでも出てこなかった(書いていないのだから当然です)。だから、こんな無理なこじつけをして、結論を導き出したのでしょう。

 

 党内には異論が存在しているだけではありません。その異論を外に出して議論することだって、この間、かなり許容されてきました。例えば、私が関係する分野で言えば、2000年の党大会で決めた「自衛隊活用論」など、学者の党員をはじめ公開の雑誌などで徹底的に批判されましたが、何のおとがめもありませんでした。私もこの間、自由に政治的発言をしてきましたが、処分どころか注意さえされていません。SNS時代ですから、党中央の見解が固まるまでは自分の見解は明らかにしないなんて、とても通用することではないのです。

 

 そうやって共産党は、自由で個性の豊かな姿を国民に見せ、国民に近い存在になろうとしていたのです。それなのにに、今回の処分は、そのような努力で築いたものを完全に逆行させてしまいました。(続)

 

出典:https://ameblo.jp/matutake-nobuyuki/entry-12789043545.html

 

 このブログ記事を、最初に書いた「批判の自由と行動の統一」に当てはめると、批判の自由は2000年の党大会で「自衛隊活用論」を決めた頃には既にあった。それは党外には十分可視化されていなかっただけで「批判の自由と行動の統一」という民主集中制本来のあり方に回帰しつつあったのに、今回の除名劇で「分派の禁止」を振りかざす、一時期の「集中集中制」的あり方に逆行してしまったのではないかと松竹氏は言いたのではないか。私はそのように読んだ。

 今回の騒動で共産党政党支持率は下がっていないし、下記三春充希氏のツイートを見ると逆に上がり、回復傾向を見せているようだ。

 

 

 この傾向に得々としている人たちもいるが(ほんの少し前の立民・泉体制の支持者たちも同じだった)、問題はアーリーアダプターたちが次々と共産党から離反していることだ。その一例として醍醐聰氏の連ツイを以下に示す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の国政選挙(おそらく衆院選)がいつになるかはわからないが、志位共産にせよ泉立民にせよ山本新選組にせよ、その時を待たなければ有権者の審判は下らないのかもしれない。