ヨルダン軍のパイロット、ムアーズ・カサースベ中尉が「イスラム国」によって勝手に火刑に処せられたニュースは凄惨の極みであって、その動画を見たいという人の気が知れない。湯川遙菜・後藤健二両氏殺害の画像も、私は見ていない。
私が思うのは、人の命は平等だということであって、それは、湯川遙菜にも後藤健二にもムアーズ・カサースベにも、あるいは有志連合の空爆で殺された人にも、テロをやり損ねたサジダ・リシャウィにも安倍晋三にも当てはまる。空爆の犠牲者とサジダ・リシャウィと安倍晋三の命の重さはそれぞれ同じである。
人は、これを極論と思われるだろうか。
現在の日本では、上記はもはや極論と思われるかもしれない。しかし、1977年の日本ではそうではなかった。今朝(2/5)の朝日新聞4面に掲載された元運輸政務次官・石井一のインタビューを読んで、当時を思い出した。石井一は、最近では一時小沢一郎の側近だったが最後には離反した印象が強いが、田中角栄の秘書から政治生活を始めた人だ。
当時石井一は、人質の身代わりになるために自ら人質になることを申し出た。他に、日航の朝田静夫社長と外務省の役人も人質になることが決まったが、他の人たちはなかなか決まらなかったという。天晴れな話である。テロリストを挑発して湯川遥菜と後藤健二を死に追いやった安倍晋三と比較すると、あまりの落差に目が眩む。
石井一は語る。
「大きかったのが世論だ。朝から晩まで事件が報道され、『何としても人質を助けよ』という世論に政府は押された。福田氏*1や園田直官房長官(当時)は、人質を救えなければ内閣総辞職を決めていた」
(2015年2月5日付朝日新聞4面掲載記事より)
確かにそうだった。しかし、当時既に福田政権の対応を批判する意見はあり、新聞の論調や投書欄で多数派とはならなかったが(当時はまだ読売も右傾化しておらず、日本で右翼的な新聞と言えば産経、当時はサンケイとカタカナ書きしていたが、この新聞くらいのものだった)、週刊誌などでタカ派論客がよく吼えていた。今はそっちが主流になってしまった。
インタビュアー(関根慎一記者)は、安倍晋三が野党時代に「人命は地球より重いとうそぶくしかなかった」と憲法改正問題と絡めて当時の政府の対応を問題視したことについて訊いた。石井一は答える。
「安倍氏が事件当時、首相をしていたら、福田氏と同じようにぎりぎりの決断をしていたのではないか。当時、政府内にいた人間にほかの選択肢はなかった。当然やるべき正常な判断だったと今でも思う」
(同前)
安倍晋三が当時の首相だったなら同じ決断をしていただろうとは私も思う。安倍晋三は現代日本の右翼的な世論を背に受けているからああいう傍若無人な振る舞いができるのだ。安倍晋三は中東では勇ましいことを言ったが、いざ湯川遥菜と後藤健二の人質の動画が公開され、身代金を要求されると、全く覚悟ができていなかったのか、目に見えて動揺した。安倍晋三はダッカ事件当時に石井一や朝田静夫の立場にいたなら、人質の身代わりとして手を挙げることは決してなかっただろう。安倍晋三は基本的に小心な人間であって、一国の指導者の器ではない。70年代のように、実力のある者でなければ総理大臣になれない時代であれば、間違っても総理大臣になどなりようがなかった人間だ。その後日本社会は急速に流動性を失って階級が固定されるようになった。1987年の竹下登以降、海部俊樹・村山富市・菅直人・野田佳彦を除いて世襲政治家ばかりが総理大臣になっている。
その政治の貧困が、湯川遥菜と後藤健二の死につながったのではないかと思う今日この頃である。