kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「自己責任論」の評価は地に堕ちたか?

http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20150202(2015年2月2日)経由で、精神科医斎藤環氏のつぶやきを知る。

https://twitter.com/pentaxxx/status/561877855210967041

斎藤環
@pentaxxx

一連の騒ぎでちょっとだけマシだったのは「自己責任」の暴落ぶりか。その内実は「自業自得」と「村八分」というムラの論理だったことが発覚して最安値更新中。口にした瞬間に残念な知性がバレる「バカ発見ワード」の箱に入りました。

5:24 - 2015年2月1日


私も きまぐれな日々 集団的自衛権行使のために中東外交路線を変更した安倍晋三(2015年1月26日)に、

この「自己責任論」だが、「村八分」とか、阿部謹也のいう「世間」と同じではないか。これは「昔ながらのムラ社会」の論理にほかならず、それが新自由主義と珍妙な結びつきをしたものだろうと思うのだ。「2ちゃんねる村」とでもいうか。

と書き、それに続く きまぐれな日々 安倍晋三の「テロとの戦い」とネトウヨの自己責任論の齟齬(2015年2月2日)でも「自己責任論」を笑いものにしたのだけれど、あとから調べてみると、私が最初に書いた1月26日の数日前から、「自己責任論」を「村八分」と結びつける意見が既にあった。もちろん、上記ブログ記事で指摘したように、2011年に佐藤直樹イラク人質事件(2004年)に絡めて下記のように書いている。

(前略)当初人質家族に向けられていた同情と共感の感情が、家族が「世間」に謝罪しなかったこともあって、政府の「自己責任論」にもとづく非難によって反転し、人質家族へのひどいバッシングとなった。おきたことは古典的な「世間」による村八分的バッシングだったのだが、「自己責任」という非難に使われた言葉が、「後期近代化」による新自由主義の台頭を象徴していた。

佐藤直樹『なぜ日本人はとりあえず謝るのか: 「ゆるし」と「はずし」の世間論』(PHP新書,2011)より)



ただ、日本的「自己責任」とは詰まる所「自業自得」=「"村八分"への恐怖」である - Togetter のコメント論における論戦などを見ると、2004年には時の総理大臣・小泉純一郎やら読売・産経両新聞やら辛坊治郎やら勝谷誠彦らの応援よろしく、肩で風を切って我が物顔にふるまっていたとおぼしき「自己責任論者」が、今回は思わぬ逆風を受けて顔を真っ赤にして反論しているさまが観察できる。

確かに2004年当時よりは「自己責任論」の株価が落ちてはいるものの、まだ「最安値更新中」とまではいえないのでは。だって、かつて、というか20世紀後半の80年代くらいまでは、「自己責任論」みたいな暴論が大手を振ってまかり通ることなんか考えられなかったからね。

今回は、安倍政権の集団的自衛権の行使(=「テロとの戦争」への参加)の野望に配慮した読売や産経が「自己責任論」を控えてるし、辛坊治郎は「自己責任論」をうかつに口にできなくなったし(笑)、勝谷誠彦は「小沢信者」になったのを咎められたのかどうか、故たかじんの極右番組から干されるなどしてテレビへの出演がめっきり減ったとはいえ、それでもまだフィフィやらデヴィ夫人やらが「自己責任」を説いて、多くのネトウヨたちの賛同を得ているらしい。

ところで、フィフィもデヴィ夫人も「小沢信者」じゃなかったか? フィフィはよく『反戦な家づくり』のブログ主のTwitterあたりに発言が肯定的に引用されているし、デヴィ夫人については、

楽しみなのは、デヴィ夫人から<きっこさん>まで、ネットに巣くうアホ小沢信者の発言。

などと書かれていた*1

かつて『日本改造計画』に「グランドキャニオンには柵はない」と書いたという小沢一郎こそは、現代日本の「自己責任論」の元祖ではなかったかと思い至った今日この頃なのであった。