kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「勝者目線」を空しく貫こうとした敗者・勝谷誠彦

勝谷誠彦が死んで、やれ「悪ぶっていたが本当はシャイな人だった」などと惜しむ声が相次いでいる。生前は辻元清美蓮舫らとも交流があったという。

しかし、勝谷は生前に政治的言説を撒き散らしていた人間だ。その功罪は彼の死にはかかわらず手加減なしに論評されなければならない。

私が勝谷を嫌うきっかけになったのは、彼が2004年のイラク人質事件で「自己責任論」を煽りまくったことだった。

今では「さるさる日記」はサービス終了後読めなくなってしまっているが、2004年4月頃にその醜悪な記事群は書かれた。

ところが、勝谷がそれらを書いた後、こんな一件があったという。こたつぬこ(木下ちがや)氏のツイートで知った。なんと、この日記の記事にリンクが張られている。

https://twitter.com/sangituyama/status/1067945326034579456

勝谷さんは、イラク人質事件のときも「自己責任論」と唱え、人質の人たちを罵倒していました。しかし勝谷さんが師匠と慕うジャーナリストの橋田信介さんは、その後イラクで襲撃されて亡くなります。あまりのご都合主義的な態度に呆れ果てました。 http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/touch/20181103/1541206467

16:56 - 2018年11月28日


調べてみると、橋田信介氏が亡くなったのは2004年5月27日で、勝谷が人質の人たちを罵倒した「さるさる日記」を書いてから2か月も経たない頃だった。こたつぬこ氏はTwitterの字数の制限上書いていないが、おそらく勝谷は「さるさる日記」に「声涙ともに下る」名調子の追悼文を書いたのだろう。

調べてみると、勝谷は橋田氏らとイラクに行ったこともあり、イラク人質事件が起きた2004年に『イラク生残記』なる著書を出してもいる。読んだ人の中には勝谷の熱烈なファンになった人もいることが、ネットに公開された感想文から窺われる。テレビでのしゃべりと合わせて、口八丁手八丁が勝谷の生命線だった。

しかし、勝谷は常に「勝者目線」の人間だった。常に時流に乗ろうとして多数派に迎合した。その最悪の表れがイラク人質事件で「人質バッシング」を煽ったことだった。私にとってあのバッシングの悪印象はあまりにも強い。たとえば、その後総理大臣になってからの業績では「今世紀でもっともましな首相」として評価している福田康夫についても、あの時小泉内閣官房長官として人質バッシングに加担するコメントを出したことに対しては今も許していない。

もっとも、自らの「勝者目線」にもかかわらず、勝谷本人はよく負けた。特にその晩年は「負け続け」だった。たとえば、小泉純一郎政権を応援していた勝谷は、後任の安倍晋三に人望がないと看て取るや小沢一郎応援に乗り換えた。その後2012年に小沢が民主党を割って「国民の生活が第一」を立ち上げた時の集会で乾杯の音頭を取ったのは勝谷だったが、2009年の政権交代によって勝谷の狙いは当たったかに見えたが、民主党政権時代に東日本大震災と東電原発事故が起きたにもかかわらず災害そっちのけで菅直人らと醜い権力闘争を繰り広げた小沢が急速に没落していくと、勝谷もテレビ出演を干されるようになり、頼みの綱だった大阪・読売テレビのかつてやしきたかじんの名前を冠していた極右番組からも干されてしまった。

しかし、負けても負けても勝谷は「僕ちゃんは本当は勝者になるはずの人間なんだ」という思い込みから生涯解放されなかった。そう思えてならない。

Wikipediaによると、勝谷は東大への進学率の高さで有名な灘中学に入学したが、

「最初から最後まで下から3番目とかだった」と回想している。卒業に関しては「私と物理学」という作文を書いて何とか卒業を認めて貰ったという経緯もあるという。

とのことで、高校を卒業できるかどうか懸念されたくらいの惨憺たる成績だったらしい。それにもかかわらず、12歳の子ども時代に灘中の入試に合格してしまったことが、この男に生涯の勘違いをさせた原因になったのではないか。勝者であるためには、「勝者目線」を持ち続けなければならない。そんな強迫観念があったのではないか。

だから、勝谷は「本当は弱い」自分の実像を直視できなかった。正直言ってそんな勝谷に哀れさを感じなくもないが、今の日本には勝谷みたいな人間が大勢いる。勝者目線を持って外国人を差別したり、正社員目線で非正規雇用の人たちを差別したり*1。決して自分自身が「勝者」ではない人たちが、まるで「勝者目線」を持てば勝者になれるかのような強迫観念に駆られている。この「崩壊の時代」にある日本の、病みに病んだ社会だ。

勝谷は、最後には自分の病気も否認したあげくに死んだ。下記に引用した記事によると、勝谷の病室からは、酒の空き瓶が大量にみつかったという。アルコール依存症の恐ろしさだが、本当に勝谷を止めることのできる人間など誰もいなくなっていたともいえる。


この勝谷の最期は、たとえば一部から「耄碌した」とあからさまに評されている麻生太郎(や麻生を大臣に指名した安倍晋三)を止められる人間が誰もいなくなっていることと二重写しとなる。勝谷の死によって、そうでなくても暗い気分になることが多い昨今、さらに重く暗澹たる気分にさせられた。

*1:ちょっと前に日産の元派遣社員たちがゴーンによって蒙ったリストラに対する抗議活動をしたというニュースがあったが、某所でこの件に関して元派遣社員たちへの罵倒コメントであふれ返っているのを目撃した時には慄然とした。