kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

児玉清と小池清

大阪の朝日放送が制作している老舗のクイズ番組「パネルクイズ・アタック25」の司会で有名な俳優の児玉清が死去した。享年77。

最近、児玉清が激やせしているという声は結構あった。私は、10年ちょっと前に亡くなった野球評論家の別所毅彦が死去直前に激やせしていたことを思い出して、別所氏同様ガンではないかと思っていたし、同様の心配をしていた人も多かったようだが、やはりその通りだった。亡くなった年齢も別所氏と同じくらいではなかったか。

アタック25」は、番組開始当初から知っている。なぜか日曜日のクイズ番組というと在阪局、というイメージがあり、私が子供の頃には、毎週日曜日の夜に、毎日放送制作の「アップダウンクイズ」を見ていたものだ。「4チャンネルというとアップダウンクイズ」というのが子供の頃のイメージだったが、その頃の毎日放送はNETテレビ(現テレビ朝日)系だったから、関東では10チャンネルで放送されていたのだろう。6チャンネルの朝日放送がTBS系だった。それが、毎日放送がTBS系、朝日放送がNET系になったのが1975年春のことで、俗に「腸捻転の解消」と言うが、これには田中角栄が関与したことで知られる。「アタック25」は、腸捻転が解消されたまさにその春に放送が開始されたが、番組開始当時からNETがネットしていたかどうかは私は知らない。数年後、同じ日曜日の夕方に朝日放送がスタートさせた「三枝の国盗りゲーム」は、番組開始当初は関西のローカル番組だった。

アタック25」は、当時流行し始めたオセロゲームをクイズに取り入れた番組だったが、開始当時には児玉清の司会は生真面目で、のちのように回答者のパネルの取り方を批評することはなかった。番組を見ていた視聴者の方が「あの回答者、パネルの取り方が下手だなあ」と言っていたものだ。

この番組で忘れられないのは、私は一時白黒テレビを見ていたため、パネルの色が白以外区別がつきにくいのに腹が立ったことだ。「白黒テレビの視聴者をバカにした番組だ」と毒づいていたものである。70年代後半当時、白黒テレビのシェアは下がっていたが、それでもまだ多少は残っていた。

もっともこの番組をずっと見ていたわけではない。教育テレビの囲碁の番組を見ていた時期もあるし、最近では長年見ていなかったが、どういうわけか最近東京に移ってきてからよく見るようになった。テレビ朝日は日曜日の昼に、関西や岡山・香川エリアでは放送していない、テリー伊藤黒鉄ヒロシが出演する極右番組をやっているので、ついついそれをチェックしてしまい、そのままテレビをつけっ放しにしていると「新婚さんいらっしゃい」に続いて「アタック25」が始まるというパターンだった。児玉清もすっかり年を取ったなあと思っていたが、ついに現役のまま亡くなった。

で、「こ○○きよし」つながりで思い出したのが、最初に書いた「アップダウンクイズ」の司会者・小池清だったというわけである。「アップダウンクイズ」も長寿番組で有名だったし、司会の小池清は最後の頃にはおじいちゃんになったなあと思っていたのだが、毎日放送のアナウンサーだった小池清が番組の司会を退いたのが1983年、まだ52歳の時だった。小池の退任後、司会は西郷輝彦に代わったのだが、その2年後に番組は終了した。番組の寿命は22年だった。

アタック25」はもう36年もやっている。37年目にして司会者がこの世を去った。驚いたのは、児玉清は今も健在の小池清より2歳若いだけだということだ。小池清は1931年8月10日生まれで、児玉清は1933年12月26日生まれ(戸籍上は1934年1月1日生まれ)。77歳まで現役を務め上げた児玉清には感服するばかりだ。

そういえば児玉清は昨年もNHKの『龍馬伝』に出ていた。NHK-BSの『週刊ブックレビュー』にも出ていたが、番組を通じてだったか、児玉清は結構な右翼思想の持ち主であるらしいことを知った。読書家で右翼思想の持ち主というと私が思い出すのは谷沢永一だが、その谷沢も昨年世を去った。右翼の訃報というと、直近では産経新聞花岡信昭が急死したが、まだ65歳の若さだった。

だが、なにしろ児玉清は先日まで現役で働いていたから、ほぼ平均寿命の77歳の死でも「早かった」と思えてしまう。ご冥福をお祈りする。

「原発」が争点になりそうにもない青森県知事選と、腰の定まらない民主党

朝日新聞の2面に19日告示の青森県知事選に関する記事が出ている。見出しは「原発 争点か素通りか」となっているが、記事を読んだ限り、悲観的な見通ししか持てない。

まず選挙だが、これは3選を目指す現職の三村申吾(自民・公明推薦)が楽勝するのだろう。民主・国民新党推薦の山内崇は「原発の新設凍結」を打ち出し、共産党公認の吉俣洋は「原発の建設中止、運転中の原発も段階的に廃止」を主張する。

しかし、人口7千人の東通村に1988年〜2009年の間に224億円の「電源三法交付金を受けた下北半島ばかりではなく、青森市でも「反原発」は低調とのことだ。4月の青森県知事選で原発問題を熱心に訴えた社民党現職が前回から得票を1千票以上減らして落選したと記事は書くが、そういえば東京の区議選でも、反原発派の現職候補が落選した例があった。これは原発問題というより、2009年の政権交代によって、かえって社共や革新系無所属は「少数派の論外勢力」と見なされる空気が強まったことと関連づけられるのではないか。かつては革新系を支持していたと思われる人たちの多くが、過去から現在に至るまで「脱原発」派であったことなど一度もない小沢一郎の信者になって平気で「脱原発」と「小沢信奉」を両立させるという、ネットにおける頭の痛い現象と通底している。

朝日新聞の記事の後半には、「民主、方向性バラバラ」という見出しがついている。たとえば幹事長の岡田克也は明らかな原発推進派であり、15日、大間町大間原発の推進を求めた金沢満春町長に対して、岡田は「基本的に稼働を認めないと、日本中の原発が止まって電力をまかえなくなる」と語った。一方、首相の菅直人は「脱原発」とは決して口にしないが、「脱原発」へとつながるエネルギー政策の白紙見直しや、電力会社の嫌がる発送電分離に言及する。菅と岡田の発言の食い違いは国会でも自民党などに追及されている。

そもそも、朝日新聞が書く通り、民主党自体の方向性がバラバラなのだ。以下同紙の記事から引用する。

 民主党は今は「原発推進でも脱原発でもない党」(幹部の一人)という。結党当初は、旧社会党系議員に配慮し、自民党との違いを図るため、原発を「過渡的エネルギー」と位置づけた。だが、その後、原発推進の旧民社党系などと合流し、旧自由党とも合併。政権交代が現実のものとなり始めた07年の参院選原発推進に転換した。

 しかし、福島第一原発の事故後は見直し機運が生まれつつある。17日には新エネルギー推進に向けた勉強会が立ち上がり、約50人が参加した。さらに「反原発」が持論の篠原孝農林水産副大臣と、父が青森県選出の自民衆院議員として原発を推進した田名部匡代政務官は、省内でバイオマス発電の本格普及に向けた検討を始めた。

 だが、岡田氏は「時間をかけ、しっかりした議論が必要だ」と繰り返す。原発政策の見直しは「パンドラの箱」を開きかねず、深刻な党内対立を生む危険性をはらむからだ。
(2011年5月19日付朝日新聞2面掲載記事=南彰記者署名=より)

これが民主党原発に対するスタンスだ。「原発推進でも脱原発でもない党」という表現から思い出したのは、かつて菅直人が言ったという「野党でも与党でもないゆ党」という表現だ。水でも熱湯でもないぬるま湯というべきか、それとも鵺(ぬえ)というべきか。

青森県知事選に立候補予定の山内崇は、「原発の新規凍結」を言っているだけなのに、民主党県議から「電力系労組は応援できなくなる。言い方に気をつけた方がいい」と注文をつけられる始末なのである(朝日新聞記事より)。

いい加減に民主党信者、いや小沢信者たちも、電力総連や旧民社の害毒という現実を直視すべき時だ。