kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ニューリベラリズムとネオリベラリズム(新自由主義)と修正資本主義

若林辞職+平沼&与謝野が共同代表で新党+与謝野の理念&修正自由主義 : 日本がアブナイ! で当ブログのエントリ*1に言及いただいた。

このうち、与謝野馨に対する評価については、それこそ書き出すと長くなるし、そもそも与謝野については『文藝春秋』4月号に掲載された与謝野の論文を『きまぐれな日々』で批判するつもりが果たせずにいたので、同ブログの次のエントリにでも書きたいと思う。簡単に書くと、与謝野は、外交・安全保障政策や憲法問題では、自民党議員の大半が極端に右傾した関係で、現在の自民党の中では特にタカ派とは言えないが、もちろん護憲派ではない。しかし、それよりも私が問題視しているのは与謝野の財政再建に偏った経済政策であって、与謝野の経済政策を政府が取り入れてしまうと日本経済の復活の芽が摘まれてしまうと私は考えている。

それから、「修正された自由主義」は普通は修正資本主義というのではないかという私の疑問に対しては、下記のようなコメントをいただいている。

 最後に、修正された自由主義について。

 mew的な解釈によれば、自由主義というのは、人権全体を含んだ政治的な意味合いの強い用語で。特に経済的な自由の面で使われることが多くて。そのあらわれの代表的なものが資本主義なのではないかと考えているのだけど。
 
 自由主義の見地から言えば・・・。実は、随分昔に<4年以上前だった^^;>に『小泉首相等が標榜する「新自由主義」って何?』というシリーズで、このことについて書いたことがある。

<「政治・経済・自然科学の学習室」の「自由主義の発展」という記事も参考になるかも?(・・)>

 いわゆる自由主義リベラリズム)の学説(の分類)に関しては、大別すれば、「リベラリズム」→「ニューリベラリズム」→「ネオリベラリズム」がある。

 最近、元祖(?)のリベラリズムは「古典的な自由主義」と記されることが多くなっていて。
 ニューリベラリズムは「修正された自由主義」と、ネオリベラリズムは「新自由主義」とあらわされることが多いようなのだ。

 mewが学生時代に読んだ本では、ニューリベラリズムは、確か、「新自由主義」と訳されていたのだけどね〜。(@@)

 それは古い本だったのかも知れないのだけど。<題名も誰が書いた本かも覚えていない。^^;>
 まあ、ニューを新と訳すのはふつうのことで、自然にそうなったのだろう。

 ただ、80年代前半から英米ネオリベラリズムが台頭して、90年代に日本で広まる過程で、どこかの学者がこれを「新自由主義」と訳して、その呼称が普及。いつの間にか、「ネオリベ
新自由主義」が定着してしまったのではないかと思われる。^^;

 で、新自由主義の名を奪われたニューリベは、リベラリズムを修正したものであったことから<過度な自由放任主義、「小さな政府」政策を修正し、社会政策的な観点などを取り入れた>ので「修正された自由主義」(修正自由主義)と呼ばれるようになったのかも知れない。>

 でも、日本の政治の分野では、「リベラル」という言葉を使う時は、この「修正された自由主義」のことを指すことが多いわけで・・・。^_^;

 ブログで、こういう専門っぽい用語を使うのは、本当に難しいな〜と。<とはいえ、いちいちヨコに定義を書くわけにも行かず>悩まされることが多いmewなのだった。(@@)


私の場合、「ニューリベラリズム」や「ネオリベラリズム新自由主義)」よりずっと前に、「修正資本主義」という用語を高校の授業で聞いたことがあった。この「修正資本主義」とは、mewさんが書かれている「修正された自由主義」と同じような意味だが、経済学的な用語だと「修正資本主義」で、政治学的な用語だと「ニューリベラリズム」になるのだと思う。現在普通に言われる「リベラル」がこの「ニューリベラリズム」、あるいは「修正された自由主義」を指すことは、mewさんが書かれている通りで、そのように私も認識している。

一方、市場原理主義を採用した政治思想を「新自由主義」と呼ぶのがはやりだしたのはいつ頃だろうかと思って、私もネット検索や過去に買った新書本などを調べたことがある。その結果は、1980年代初頭には「新自由主義」という言葉が最初に現在のような意味で用いられた例は認められるけれども、広く用いられるようになったのは90年代末頃(1997〜99年頃)で、ちょうど「グローバリズム」だとか「グローバル・スタンダード」などといういやらしい言葉が世の中に氾濫し始めたことへのカウンターとして、「新自由主義」という用語を否定的に用いて批判するようになったということだった。それ以前には、むしろ自由放任(レッセフェール)ではなく、それに制限をかける行き方を「ニューリベラリズム」と言っていたし、今もそう言っていることは私も了解している。

ただ単に私は、「修正自由主義」とか「修正された自由主義」という表現をあまり見たことがなかっただけであって、「ニューリベラリズム」という用語は見たことがあるけれども「ニューキャピタリズム」という用語は見た記憶がない一方で、「修正資本主義」はよく見聞きするけれども「修正(された)自由主義」とはあまり言わないのではないかと思っただけだった。この用語の件についてmewさんに詳しくご説明いただいて恐縮した次第である。

なお、資本主義側から社会主義的な政策を取り入れた場合「修正資本主義」だが、社会主義側から市場原理や議会制民主主義などを取り入れた場合「社会民主主義」になり、理念の上では1994年の自社さ連立政権はその組み合わせの中道政権になってほしいと私は期待していたのだが、そうはならなかった。70年代から30年間ほど一世代をまるまる風靡した新自由主義の荒波に、自社さ連立政権は、特に後半の橋本龍太郎政権時代には、中道政治を行うどころか、既得権益固執する守旧派新自由主義的な改革派という、2001年から小泉政権が大々的に演出した対立構造を先取りしただけの政権となり、その後の小渕恵三内閣ともども、清和会支配の新自由主義時代の露払い役を演じただけだった。加藤紘一しかり、菅直人しかりであり、現在の目から当時の彼らが「小さな政府」を標榜したことを批判することはたやすいが、彼らをしてそういう方向性をとらせる圧力があの時代には強くあったと私は考えている。そしてその結果が現在のような税収の乏しさであって、それは、中曽根康弘政権以降、歴代の政権が「小さな政府」の政策(新自由主義政策)を取り続けたことの必然的帰結であると解釈している。