kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「自立と自律」を目指す柔道家・山口香に関するみごとな論考

女子柔道のパワハラ告発の件で、感心した記事があったので紹介したい。みごとな論考であり、私ごときがくだらないコメントを差し挟むべきではないと考えるので、以下に全文をそのまま引用する。


http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2013/02/post_189.html(2013年2月11日)

三四郎山口香の大技「自立」のやまあらし


2月10日と11日付の毎日新聞にいわゆる「女子柔道暴力問題」に関して、元柔道の選手で日本女子で初めて世界選手権(52キロ級)を制したこともある山口香さん(現JOC理事)のインタヴューが掲載されている。山口さんのインタヴューはすでに7日に朝日新聞が報じているが、毎日のものも充実している(朝日の記事は月3000円余のお金を払わないと見られないが、毎日jpは今日でも見られる。同じことなら毎日にお金を払いたい)。


◆告発の真相:女子柔道暴力問題 山口香・JOC理事に聞く/上 特定の選手 見せしめ 
毎日新聞 2013年02月10日 東京朝刊
◆告発の真相:女子柔道暴力問題 山口香・JOC理事に聞く/下 暴力撲滅の宣言を
「日本スポーツ界は変わる」世界に訴えよ
毎日新聞 2013年02月11日 東京朝刊


 実は今回の「告発」に、山口さんは最初から関わっていたようだ。女子選手たちから雑談で監督の暴力の話を聞き、全柔連に伝えたところ、全柔連は岡田監督本人を呼んで事実を確認し、選手に謝罪もしたが、それで済まそうとして監督は代えなかった。ところが次の海外遠征のとき、好成績を出した当の選手に、「厳しく指導したからだ、文句あるか」というようなことを言ったという。後は全柔連は山口さんをなだめにかかる。

 これでは同じことが繰り返され、また犠牲者が誰かに泣きつく、ということの繰り返しで、事態は改善されない。それでいいのか、という苦悶のなかで選手たちは告発を決心したということのようだ。

 「全柔連は事態を隠蔽したわけでも、不当に軽く扱おうとしたわけでもないだろう」と山口さんは言う。もともと彼らの頭の中では、軽い問題なのです」と。しかし「私には女子柔道が恵まれない時期から取り組んできた自負がある。殴らなくては強くならないなんて、ふざけるなと思いました。女子選手がこんなふうに扱われるのが許せなかった」と。 そして15人の選手たちの「告発」以後は、彼女たちをあらゆる不利益や攻撃から守るために、「私がメディアの取材を受け、矢面に立つ」と決めているようだ。

 おそらく全柔連の幹部たちは「面目を潰してくれた」と苦虫を噛みつぶしていることだろう。東京がオリンピック開催地に立候補している折りでもある。猪瀬都知事をはじめ、招致運動に入れあげている連中もそうだろう。だからスポーツ界(柔道界)のスキャンダルとしてにぎやかに取り上げられても、ほとぼりが冷めた後には反動が来る。問題があるから噴出すのだが、問題がある体制に乗っかって地位や力を保っている連中にとっては、それを「問題」として取り上げること自体が「迷惑な」、ことによったら「けしからん」ことになるのだ。

 ふつうスポーツ関連の話題は「21世紀スポーツ文化研究所(ISC・21)」の稲垣正浩さんに任せているが(ブログ「スポーツ・遊び・からだ・人間」)、この問題をわざわざ取り上げるのは、じつはこの出来事がいまの日本社会のもっとも問題化されにくい局面の具体的な表れになっていると思われるからだ。

 山口さんは、講道館創始者嘉納治五郎の教えを引く。「精力善用」、力は社会の善い方向のために使え」とのことだという。また、スポーツが養うのは「自立・自律」の姿勢だというヨーロッパの考えに共感している。わけのわからない「根性」ではないのだ。

 ところがそのスポーツがオリンピックでメダルをたくさんとるため、という誰が決めたのでもない「目標」のための競走場になり、そのための体制が国策がらみでそれぞれのスポーツ分野で敷かれている。そしてそこでは(繰り返しだが)、問題があるから噴出すのだが、問題がある体制に乗っかって地位や力を保っている連中にとっては、それを「問題」として取り上げること自体が「迷惑な」、ことによったら「けしからん」ことになる。

 これが「懲りない」問題ある体制の構造力学である。原発維持体制でも、経済成長路線でも、官僚機構や政党の統治の仕組みでも同じことだ。原発の活用には基本的に問題がある(事故の危険、原発汚染労働の隠蔽、廃棄物処理の先送り etc.)。だが、国民皆の運命(未来)がかかったこの問題も、それを「問題」として取り上げることを「迷惑」がる体制によって、二年も経つと福島第一の事故など起こらなかったかのように、あるいは起きたけど大したことはなかったし、過去のことだね、といったふうに処理されて、再び原発体制に戻ろうとする力が「復興」する。

 自民党の超長期政権でで日本の社会はさんざんな目に合ったのに、やっぱり自民党でなくっちゃ、と問題丸抱えのまま政権に復帰し、世の中もそれを受け入れている(最近の調査では安倍内閣の支持率は高いそうだ)。

 山口さんはスポーツの領域でその構造に異を唱えて立った。若いころ「女三四郎」と呼ばれて活躍したが、新聞にも紹介されたその姿はまことにすがすがしい。そういう問題を凛として提起し、若い選手たちの盾になって表に出る、そんなことができるのはまた女性だということにも注意しておきたい。オジサンたちはいつもその構造の上にあぐらをかき、こういう時に「申し訳ありませんでした」と言ってテレビの前で頭を下げてみせる管理者の側だ。

 最近一躍脚光を浴びた女子サッカーも恵まれなかったが、「私には女子柔道が恵まれない時期から取り組んできた自負がある。殴らなくては強くならないなんて、ふざけるなと思いました。」男のやることと思われていたスポーツを変えられるのはこういう女子選手たちである。他の領域でも同じだろう。ただ、女子サッカーはあまり使い回されて大丈夫かとも思うが。

 女が元気だ、といった話ではない。とりわけ日本の社会では、男はこういう構造と相身互いで守られてきた。だから「自立」できないし「自律(身を律する)」こともできない。その悲惨な例が、やはり柔道界の生み出した内柴某だ。

 山口さんのキーワードは「自立と自律」である。組織に凭れないこと、取り込まれないこと、自分で考え、判断し、行動すること。他のどんな分野でも、いまそういう姿勢が求められている。日本陸連の指導を受けない「市民ランナー」川内優輝さんは、先日の別府大分マラソンで「自立と自律」の範を示した。

 だが、日本社会にはそういう姿勢を押しつぶそうとする執拗な力学が働いている(福島の事故があって、廃棄物処理のめども立たないのに、まだ原発を続けるという、そんなことでは世界の冷笑を買うしかない)。そこが変わらなければ日本は変われない。山口香さんは巧まざるして「変える」の範を示したのである。それが三四郎の決め技ヤマアラシだ。

 ついでに、一言ふれておけば、スポーツはたんなる娯楽ではない。現代のグローバル化しメディア化した世界で、スポーツは全人類に共有されるスペクタクルになっている。スペクタクルとは何かと考えれば、現代の世界でのイヴェント・スポーツの意味が推測されようというものだ。それに、一方でデジタル・ヴァーチャル化が進み、その反動のように身体意識が呼び戻される状況で(テクノロジーと自然、人口知能と身体 etc.)、われわが身体を生きていることの意味もまた問われている。そのとき、われわれがなぜスポーツに魅かれるのか、われわれはなぜ体を動かし競技するのか、といった問いが枢要なものとして浮かび上がってくる。このことを念頭に、アテネ・北京の二つのオリンピックを挟んだ5年間の討議をまとめて作った本が『近代スポーツのミッションは終わったか』(稲垣正浩・今福龍太・西谷修平凡社、2009年)だ。この機会に参照していただければ幸いである。