津木野宇佐儀さんにコメントをいただいだのはありがたかったが、読書・音楽ブログにではなくこちらのブログへのコメントだったことと、内容にカチンときたのでここにとりあげる。ブログ主としては、読書・音楽ブログや『鍋パーティーのブログ』の記事への案内の記事にはコメントせず、当該ブログの記事にコメントしていただきたいと強くお願いします。せっかく専用のブログを設けているのですから、当方の意も汲んでいただきたいと思います。少し前にブルックナーについて書いた時にも、津木野宇佐儀さんのコメントはこちらのブログに対してだったので、あの時も少しムッとしたのだった。しかも、今回いただいたコメントには津木野宇佐儀さんの認識の誤りまでありました。
以下コメント欄から再掲する。
津木野宇佐儀
ああ、あと『からたちの花』の方はちょっとググったら楽譜がいくつも出てきます。複合拍子ではなく変拍子であることはすぐにわかるはずです。
以下に、音楽についての私の意見を少し書く。
規則的な拍子というのは西洋の古典音楽の特徴で、東洋などでは必ずしもそうではない。しかし複合拍子ではなく不規則に拍子が変わる音楽は、その西洋音楽においてさえ、何も1913年のストラヴィンスキーの『春の祭典』から始まったわけではなく、ブラームスのような保守的な音楽家でさえ書いていた例があるのではないか、というのが私の認識です。
津木野宇佐儀さんの認識は、言っては申し訳ないけれいどもいささか「浅い」のではありませんか?
もちろんブルックナーの交響曲やオペラその他の声楽曲に関する、私には到底及びもつかない豊富な知識には敬意を表しますが、歴史認識が少し浅いのか、それとも西洋のクラシック系への偏重が過ぎるのか、少し浅さか偏りかのいずれかがあるのではないかと、生意気ながら愚考します。
なお、山田は『からたちの花』をピアノ用に編曲していますが、その楽曲解説を以下に引用します。
解説 (1)
解説 : 太田 郁 (604文字)
更新日:2018年4月13日
《からたちの花》は山田耕筰の歌曲の中でも特に有名な作品であり、冒頭の「からたちの花が咲いたよ」の詩を読めば自ずと誰もがメロディを口ずさめるのではないだろうか。この作品は 1925年に北原白秋の詩に作曲され、ソプラノ歌手・荻野綾子に献呈された。
白秋と山田は1922年に雑誌『詩と音楽』を共同主宰で創刊し、同誌においては詩と音楽の関係性についての論考や、歌曲作品を発表するなど、親交を重ねていた。そうした交流ののちに生まれたのがこの作品である。
カラタチは鋭い棘を持つミカン科の低木で、 春に白い花を咲かせ、その後につく実は秋に黄色く実る。「からたちの花」を視覚対象に心情が述べられる白秋の詩に、山田は自身の幼い日を重ね、ノスタルジーを感じたという。
詩は六連から成り、山田は基本的に8分音符に1字を当てながらまるで語るような旋律をそれぞれの言葉につけている。旋律に合わせて拍子を変化させており、これは《この道》にも見られる技法である。これによって旋律は言葉に沿って形作られることが可能になり、山田が言うところの音楽の「重軽」を得ていると言えよう。なお、同詩を用いて作曲された《からたちの花 第2》は有節歌曲となっている。
のちの1928年には、作曲者自身がピアノ独奏曲に編曲し、白秋に献呈された。歌曲の旋律をアルペッジョで装飾しており、歌曲で少ない音数で表現されているのとは対照的な華やかさを持つ。
執筆者: 太田 郁
上記引用文の「基本的に8分音符に1字を当てながらまるで語るような旋律をそれぞれの言葉につけている」というのが『からたちの花』の音楽の特徴です。ですから間違っても「複合拍子」なんかじゃありません。西洋でもドビュッシーやシェーンベルクらがそういう音楽を書いていて、その影響も受けたのではないかとも書きながらちらっと思いましたが、私はそれらの音楽を聴き込んでいないのでこれ以上は書けません。
【追記】
津木野宇佐儀さんから読書・音楽ブログにいただいた3件のコメントに気づかず、承認が遅れていました。
弊ブログにコメントされたのがそのためだったとしたら、申し訳ありませんでした。
「変拍子」と聞くと、素朴に、「むち打ち症」を指揮者の職業病にした(?)ストラヴィンスキーの「春の祭典」が頭に浮かぶんですが…
かつて合唱をかじった人間として、チャイコフスキーの6番の2楽章(3+2=5)のようなら「複合拍子」だと思います。