kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

同じ文章を引用して全然違う結論を導いた例

きまぐれな日々 貧困と戦争 - 憲法9条と25条を関連づけて論ぜよ で、湯浅誠の『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書、2008年)から下記文章を引用した。

 他の多くの国において「貧困と戦争」はセットで考えられているテーマである。日本も遅ればせながら、憲法九条(戦争放棄)と二五条(生存権保障)をセットで考えるべき時期に来ている。衣食足るという人間としての基本的な体力・免疫力がすべての人に備わった社会は、戦争に対する免疫力も強い社会である。

早い話が、貧困が、それに苦しむ人たちに「希望は、戦争」という心理を起こさせるということだ。湯浅誠も書いているが、アメリカでは、軍隊の勧誘は主に貧困層をターゲットにしているし、日本でも自衛隊の募集担当者が湯浅さんの「もやい」にアプローチをかけてくるそうだ。

こういったことから、湯浅さんは「戦争放棄」と「生存権保障」には切っても切れない関係があって、両者を切り離して論じることはできず、関連づけて論じなければならないと主張している、そう私は読んだ。

ところが、昨日、ふと「喜八ログ」を見てみると、下記のエントリに行き当たった。

喜八ログ: 喜八路線(2)

ナナナナナント! 私と同じ部分を引用しながら、全然違う結論を導き出しているではないか。これにはビックル一気飲みだった。

エントリの公開は喜八さんの方が先だ。つまり、私がパクった、または喜八さんへの皮肉の意味を込めたと取られるかもしれないが、そうではない。「喜八ログ」の当該エントリは昨日はじめて読んだ。同じ文章を引用したのは全くの偶然だったことをおことわりしておく。

以下、「喜八ログ」の当該エントリから引用する。

ここでは明白な形で「憲法9条派と25条派の連携」という提案がなされています。
「平和と豊穣」「反戦と反貧困」「強い社会」。
これらを達成するには憲法9条戦争放棄)を擁護する者たちと、25条(生存権保障)を主張する者たちが共同戦線をなしていくことが必要になる。
「まったく、その通りだ」と私(喜八)も思います。

この引用部分のうち、「これらを達成するには憲法9条戦争放棄)を擁護する者たちと、25条(生存権保障)を主張する者たちが共同戦線をなしていくことが必要になる」などとは湯浅さんは書いていない。この部分は、喜八さんの主張だ。

湯浅さんは、9条と25条を関連づけて考えなければならないと主張しているのであって、「憲法9条だけを擁護する人」と「憲法25条だけを擁護する人」の「共闘」を呼びかけているわけではないのだ。

ましてや、「日本国憲法秋葉原事件を起こした」と主張する極右言論人をイデオローグとする政治勢力と「共闘」することなど論外だと思うのだが、いかがだろうか。