kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

『はだしのゲン』の作者・中沢啓治氏が死去

漫画『はだしのゲン』の作者・中沢啓治氏が亡くなられた。


http://mainichi.jp/area/news/20121225ddf001060004000c.html

訃報:中沢啓治さん 73歳=漫画家 「はだしのゲン」作者


 広島原爆で被爆した体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治(なかざわ・けいじ)さんが19日、肺がんのため広島市内の病院で亡くなったことが分かった。73歳。葬儀は近親者で営まれた。

 広島市の神崎国民学校(現・市立神崎小学校)1年の時、爆心から1・2キロにあった学校の前で被爆した。塀の陰にいたため、奇跡的に助かった。父と姉、弟は自宅の下敷きになって被爆死した。

 中学を卒業して看板屋で働いた後、漫画家になるため1961年に上京した。当初は原爆と無関係の作品を描いていたが、被爆者だった母親が66年に死去し、火葬した際に骨が粉々で原形をとどめなかったことをきっかけに、原爆への怒りを込めた作品「黒い雨にうたれて」を68年に発表。73年、週刊少年ジャンプ集英社)で「はだしのゲン」の連載を始め、87年に完結させた。単行本は1000万部を超え、十数カ国で翻訳出版されたほか、映画にもなった。

 プロ野球広島東洋カープの大ファンで、「広島カープ誕生物語」を描き上げたのを最後に09年、網膜症と白内障による視力低下を理由に漫画家を引退した。その後は精力的に被爆体験を語ってきたが、10年秋に肺がんで入院し、以降は入退院を繰り返していた。

 11年8月、被爆体験を語ったドキュメンタリー映画はだしのゲンが見たヒロシマ」が公開された。毎年8月6日にある広島市の平和記念式典は「つらい体験を思い出す」と避けてきたが、11年に初めて出席した。

 02年、第14回谷本清平和賞を受賞。毎日新聞が06年10月から続けている記録報道「ヒバクシャ」でも、反核・平和への思いを繰り返し語っていた。

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 ■評伝
 ◇広島で被爆反核訴え

 記録報道「ヒバクシャ」の担当者として、中沢さんが何度目かの入院をしたと聞き、妻ミサヨさんに連絡を取ったのは亡くなる前日の今月18日だった。「新年を元気で迎えてほしい」。願うような気持ちで言葉を交わしたが、かなわなかった。最期は眠るような穏やかな表情だったという。

 原爆への怒りを燃やしながら、中沢さんは死期が近いと覚悟していたのだろうか。10月23日夜、広島市内で英語版「はだしのゲン」を音読する市民講座に姿を見せた。「まさかゲンが英語を話すとは」と笑いながら「核兵器廃絶は一人一人が考えなければいけない問題。一人一人の考えが合わされば核兵器はなくせる」と力強く語り、続けて絞り出すように言った。「それを次の世代に託さなければならない。残念だ」

 故手塚治虫氏に憧れて漫画家を目指した。当時は被爆体験を語らなかった。「広島で原爆に遭ったと話をすると人の目が変わった」。自身を投影した「中岡元」を主人公に「ゲン」を描くのはつらかったという。原爆による死別や貧困など、ゲンが直面する場面は自らの体験だった。

 その分、他のキャラクターで描く楽しさを補った。ゲンの相棒で、亡くなった弟にうり二つの隆太だ。原爆孤児の影を背負いながら、ユーモアたっぷりの言動で物語後半はゲンをしのぐ活躍ぶりを見せた。来年6月で初掲載から40周年となる「ゲン」は、原爆に関する著作として国際的に読まれ、いまだにこれをしのぐ作品はない。今年は広島市内の小学校と高校の副教材にも活用された。中沢さんには、漫画として面白いからこそ読み継がれてきたという自負があった。

 「ゲン」は単行本10巻の末尾に「第一部完」とあったが、視力が悪化して第2部が描かれることはなかった。「こうなったら、口で言いたいことを言いまくってやる」。酸素吸入器を備え付けた車椅子に乗り、核兵器の廃絶と平和憲法の尊さを訴えて東奔西走した。

 今年の7月下旬、広島市内の居酒屋で久しぶりにビールジョッキを傾けた。「おれは日本画家の息子だよ」。原爆で亡くなった父晴海(はるみ)さんの話題になった。徹底した反戦主義者で絵を心から愛した親子は、あの世で尽きない語らいを続けるだろう。【中里顕】

毎日新聞 2012年12月25日 大阪夕刊


http://mainichi.jp/select/news/20121226k0000m060119000c.html

中沢啓治さん死去:「麦の種」子供たちが引き継ぐ


 広島原爆で被爆した体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」作者の中沢啓治さんが19日、死去した。亡くなる約1時間前、広島市立矢野南小学校(同市安芸区)の児童が書いた励ましの手紙約300通が中沢さんの元に届けられていた。中沢さんが9月に講演に訪れた際、「ゲン」のテーマになった麦の種をまこうと約束したが、体調の悪化でかなわなかった。子どもたちがまいた種は最近になって芽吹いた。訃報を聞いた学校関係者は「中沢さんの強い生き方を継承したい」と誓っていた。

 同小の佛圓(ぶつえん)弘修(ひろのぶ)校長(57)が以前から中沢さんと親交があり、平和学習の一環で招いた。校舎屋上の畑に11月、麦の種をまこうと話が盛り上がり、中沢さんも「収穫したらうどんを作って一緒に食べよう」と楽しみにしていたという。

 中沢さんはその後、体調が悪化し、入院が長引いた。5、6年生の児童が中沢さんを励まそうと手紙を書き、佛圓校長が入院先を訪ねて家族に託した。亡くなったのは、その約1時間後だったという。佛圓校長は「芽吹いた麦をしっかり育てたい」と語った。
 ◇死を惜しむ声相次ぐ

 一方、この日の平和記念公園(同市中区)では、中沢さんの早すぎる死を惜しむ声が相次いだ。

 三重県いなべ市から訪れた高校教諭、水谷篤代さん(41)と長男の小学6年、祐葵(ゆうき)さん(12)は親子2代で「はだしのゲン」を読んだ。勤務先の高校では生徒も読み、「内容にショックを受けていた」という。水谷さんは「ゲンは読みたい漫画であり、読まなければならない漫画」。祐葵さんは「自分たちが日常から暴力をなくすことで、戦争はなくせると思った」と話した。

 福島県いわき市の会社員、平山文公(やすひろ)さん(41)は小学生時代に学校の図書室でゲンを読んだ。「原爆は絶対なくさなければと思った。福島は原発問題で揺れているので、核をなくさなければ、という気持ちだ。子どもたちにゲンを伝えていきたい」と誓っていた。【中里顕】

毎日新聞 2012年12月25日 21時51分(最終更新 12月25日 22時21分)


はだしのゲン』が週刊『少年ジャンプ』で連載が始まったのは1973年6月とのこと。私は同年8月、生まれて初めてこの漫画雑誌を買ったが、その号に掲載されていたのが『はだしのゲン』の原爆投下の日を描いた回だった。強烈な印象を受けたことはいうまでもない。

少し前の年代であれば、少年向けの漫画週刊誌には「戦記もの」が掲載されていた。また、『はだしのゲン』は1974年9月に『少年ジャンプ』の誌面から姿を消した。その合間のほんの短い間、『はだしのゲン』が当時飛躍的に部数を伸ばしていた漫画週刊誌に載ったのだった。今にして思えば奇跡のようだ。

中沢氏の訃報記事は、朝日新聞の夕刊でも大きく扱われていたが、リンクを張った毎日新聞、特に大阪本社版が熱心に取り上げていたようなので紹介した。

なお、当ダイアリーでも何度か中沢氏に言及しているが、安倍晋三が第1次内閣時代に国民投票法を成立させた頃の毎日新聞記事を記録してあったので再掲する。


http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070514dde041010056000c.html(注:リンク切れ)

国民投票法:成立 届かぬ「おじいさまの声」 「護憲」三木さん悔し


 ◇戦争回避訴えた安倍首相の祖父

 安倍晋三首相が提唱する「美しい国」への大きな一歩−−。14日成立した国民投票法は、憲法改正の手続きを細かく定めた。平和憲法の象徴である9条も例外ではない。「成立は遅すぎたくらいだが、憲法を考えるいい機会になる」と評価する声がある一方、暗い時代の歴史の証人からは「冷静に考えて」との声も上がっている。

 「(安倍首相の)天国のおじいさまが、何とおっしゃるかしらね」。憲法改正を政権の重要課題に掲げ、国民投票法成立を主導した安倍首相に、故・三木武夫元首相の妻睦子さん(89)=東京都渋谷区=は苦言を呈した。安倍首相の父方の祖父寛さん(故人)は太平洋戦争中、三木元首相とともに対米戦争反対を唱えた人物だったからだ。

 寛さんは、旧帝国議会の元衆院議員。1942年の翼賛選挙では、翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに当選し、同じく非推薦で議席を得た三木元首相とともに、軍部主導の国会を批判した。

 握り飯とわらじ履きが、寛さんの思い出となっている。寛さんは戦争回避などを訴える街頭演説を終えると、東京都豊島区の三木家に寄り、「腹が減った」とよく言った。睦子さん手製の握り飯をほおばると、すぐにわらじを履き直し、また演説に出かけた。寛さんには、特高警察の監視が絶えなかった。「行って来る」と、毅然(きぜん)と言い残し、街に消える幅広の肩が忘れられないという。

 終戦後の46年1月、寛さんは新憲法の公布を見ることなく51歳で病死。その後、自民党に合流した三木元首相は、睦子さんがその真意を尋ねると、「僕が党に残らねば、(戦争放棄を定めた)憲法9条はなくなってしまうよ」と話した。

 睦子さんは04年、護憲を求める「九条の会」の呼び掛け人となった。2人の遺志を継承しようと思ってのことだ。「力及ばず、改憲への道のりが作られてしまった。安倍首相には2人の声が聞こえなかったようね……」。この夏に90歳を迎える声に、悔しさがにじんだ。【平川哲也】

 ◇「声を反映」に疑問/遅きに失したが歓迎

 教員や公務員の地位を利用した運動の禁止規定、テレビを中心とした広告規制、最低投票率が定められていない点など、国民投票法の問題点を指摘する声も強い。

 広島で被爆し、家族を失いながらたくましく生きる少年の姿を自らの体験を基にして描いた漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さん(68)は「米国の意のままに憲法改正を急ぐ政府の姿勢がありありと見えるようだ」と憤る。投票権者を18歳以上としたのは、若者なら問題意識が低いから安易に憲法改正に賛成するだろうと見下しているからとみる。

 有権者相手に授業をする大学教員からの批判も強い。専修大の隅野隆徳名誉教授(憲法)は「教員の意見表明は自由とされているが、地位利用の定義があいまいで、処分の可能性もあり、萎縮(いしゅく)効果がある」と話す。社会保険庁職員の国家公務員法(政治的行為の制限)違反裁判を担当する加藤健次弁護士は「何が地位利用に当たるかなど最後まで明確にならないままだった。萎縮効果や乱用の危険性が大きい」と批判した。

 国民投票の賛否を呼びかける有料CMは、投票日前14日間、禁止された。メディア研究誌「放送レポート」の岩崎貞明編集長は「何が国民投票を呼びかけるCMに当たるのか、表現内容を行政が判断するのは、検閲となりかねず危険だ。政党がまず自主規制ルールを示すべきだった。国会の怠慢だ」と批判する。

 公募に応じて先月5日の衆院憲法調査特別委員会の中央公聴会に出席した千葉市の主婦、田辺初枝さん(53)は疑問を投げかける。田辺さんが公述人に決まったのは、公聴会の3日前で、資料が届いたのはその翌日。委員会では「準備の時間もなかった。拙速なやり方に異議を唱えたい」と訴えた。法案についても、有効投票総数の過半数では、投票率が低い場合、国民の意見が十分反映されているとは思えず、反対だ。

 一方、日大法学部の百地章教授(憲法学)は「60年前にできていなければならない法律で、遅きに失したが歓迎している。3年の凍結期間も必要でなかった」と評価する。【臺宏士、長野宏美】

毎日新聞 2007年5月14日 東京夕刊


この記事に言及されている三木睦子氏も今年7月31日に亡くなられた。そして、平和主義者だった父方の祖父・安倍寛(かん)を裏切り続けてきた安倍晋三が明日総理大臣に返り咲く。

この時期に中沢啓治氏を失うとは、まことに痛恨の極みだ。