今日は遠出するつもりだったが、就寝中に咳が出て目が覚め、朝起きて血圧を測ったら血圧自体は正常値だったが脈拍数が多く、何より体調が今一つと感じられたため遠出は中止し、その代わりに読みかけの下記の本を読み終えた。
茂吉彷徨―「たかはら」~「小園」時代 (岩波現代文庫―文芸)
- 作者: 北杜夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2001/03/16
- メディア: 文庫
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昨夜、この本の核心部ともいえる、斎藤茂吉と永井ふさ子との不倫について書かれた部分を読んだのだが、著者に描き出された茂吉の毒気にあてられて体調が狂ったのかと思った。この件、思ったこと、感じたことはいろいろあるが、書き出すと例によって長くなり、せっかくの休日を無駄にしてしまうから、永井ふさ子の著書『斎藤茂吉・愛の手紙に寄せて』(求竜堂,1981)の「アマゾンカスタマーレビュー」から2件のレビューを引用してお茶を濁しておく。
− そして、誰もいなくなった − 2013/4/23
By 埼北閑人
私が、この本を買ったのは、昭和56年のクリスマスの頃だった。熊谷市内の古本屋で、帯付き新品同様、950円だった。その店は、今はもう跡形もなくなっている。
この本を読むまで、私は、万葉歌人よりも高潔な歌風の茂吉と晶子が大好きで、心酔しきっていた。
最初、どうせこんな本は、冷淡な男に振られた魅力の乏しい女が、腹癒せに書いた暴露本だと考えていた。私は、間違っていた!、夏目雅子を彷彿とさせる永井ふさ子という女性は、その瑞々しい容貌と幅広い教養とを兼ね備えたうえ、周囲への気配り、心配りも行き届いた素晴らしい人だった。そんな著者が、意を決して書き上げた本書の行間からは、至上の尊敬と慕情を以って接した恩師との邂逅と別離までの珠玉のような時間への慈しみと、永井ふさ子という人間の全生涯を賭けた“生きた証し”を遺したいという魂の嗚咽が聴こえてくるようだった。
それにしても、茂吉氏の愛の手紙(恋文)は、好意的に幾度読み返しても戴けない。
慎みの無い露骨な性欲、うじうじとした嫉妬心、執拗なまでの猜疑心(ストーカー性向)、それでいて完全別離(絶交)時の素っ気無さ、これだけならまだしも、度重なる証拠隠滅(手紙焼却処分)指示に露呈した見苦しい自己保身に至っては、気持ちが悪くなった。
精神医学の権威(医師)として、芥川氏も診ていたというが、これ程に陰の顔が表の顔と乖離している人物も珍しい。
心底惚れ抜いた女が出来たなら出来たで、永井荷風『墨東奇譚』や近松秋江『黒髪』、生島治郎『片翼だけの天使』のように堂々と作品に昇華させて世に問うのが、生身の文学者の姿勢というものではないか。
伊藤博文や渋沢栄一も好色漢で知られるが、仮にもその性癖の隠蔽工作などしなかった。
この一冊を読んでからというもの、歌人茂吉への憧憬はすっかり失せてしまった。
そんな偉そうな事を云ってるお前が、茂吉氏の立場に置かれたらどうするのだと痛罵されたならば...... 私は躊躇することなくこう応える!
極論かもしれない、暴論かもしれないが、 ...... 私なら ......
身も世も捨てて、ふさ子の手を固く握りしめ、修羅の道にでも奈落の底にでも堕ちてゆくことに悔いはない。
そう腹を括るのに時間はいらない。文化勲章もいらない。
この女(ひと)となら......
永井ふさ子さん、もうダメ。 2013/9/18
By sk
小生は先のレビューワー埼北閑人さんのコメントに100%同感、気持ち悪いほど同感です。
先日、山形県の上山温泉に行った際、地元出身の大文学者ということでぶらり斉藤茂吉記念館に立ち寄りました。
そこには正岡子規さん、芥川龍之介さん、吾輩は猫であるさん、その他多数の有名文士(爺(じ)さま連中)の写真が並べてある退屈環境の中で、若く、セクシーで飛び切りの美人の写真を見かけました。はっとして、有名女流文士なら与謝野晶子さん?しかし彼女がそのような美人というイメージは無し、修正写真?といぶかりながらその写真の人の名前を見たら「永井ふさ子」。聞いたことない!そして、解説に、「茂吉が恋心を寄せ、その感情から、従来よりみずみずしくも豊麗な歌が生まれた」とか記されていたのでした。全然知らんかった! 茂吉っちゃんなかなかやるじゃん!と思わず微笑ましい感情を持たされたのでした。で、この品良く色っぽく映る美人に俄然興味が湧き、家に帰ってからいろいろ調べたのでした。この本を買い入れたのも「永井ふさ子」なる人物をより知りたいとの目的でした、、、。
ひどい!茂吉!そりゃないぜ。あまりにむごいじゃないか!お前は人の人生というものを一体何と心得てるんだっ!、、、小生、心の中で叫ばずにいられんかった。マジ怒った。世に警察が存在しなかったら茂吉を殴り殺したい。でも、日本には至る所交番があるので、それはできず、せめて怪我を負わせぬ範囲ぎりぎりのところで、パチーン・バシーンを平手で往復ビンタを食らわしてやりたい。正直この思いに襲われたのでした(^^;。
二廻りも若く、魅惑的な美人にちょっかいをかけ、デートに誘っていきなり唇を奪い、その後は得意の歌に甘美な風味をまぶして誘引し続け(ほとんどストーカー!)、140通前後に上る恋文の焼却(証拠隠滅)を言いつけ、彼女の実家にも迷惑を及ぼし(心労で彼女の父親は早死)、不和で永らく別居していた妻が戻った途端にそれまでは夜に日をついで差し出していた熱々の誘い文をパッタリと止め、ゴミ扱いで捨て去るという、冷酷非情というより非人間性に溢れた態度、、、。東大医学部卒の医者、大歌人、文化勲章受章者等、経歴・実績とも、外では傑出した人物であることは間違いないでしょう。しかし、翻って、一人の人間としてどうかと問われればどうなのかということです。小生にとっては、最早言うこと無し、黙って殴り倒す(殴り殺すと逮捕されるので(^^;;) )に値する思いです。皆の衆、どう思います?そんな男にダマされるバカな女の方も悪いとの意見も少なくないでしょう。しかし、永井ふさ子さんの場合は当たらない。彼女の生涯に亘る生き様を知れば、バカな女と正反対であること、(A)セクシー度と(B)美し度のいずれか又は双方が上がるほどおつむの空っぽ度と性悪度も上がる(ことに(A)と(B)双方の場合)のが通常とはいえ、彼女の場合その法則と反対なことはこの本でも十分分かります。だから茂吉のような本来大教養人(しかし爺(じ)さま)でも我を忘れてぞっこん!ってことに、、、。
これ以上書き続ければきりがなくなる予感が、、、。ともあれ、永井ふさ子さんの一生は、小生が関知する限り最も哀しくも気高く思えるものの一つとなりました。
で、これだけは小生のプラトニック・リビドーなるものの発露として→→ 永井ふさ子をググッと抱きしめずにおられない。無論小生、爺とはいえ茂吉がごときクズ爺と違い、後の全責任は命と全財産を投げ打ってでも必ず負うのです。しかし、いかに小生が強く思おうと、茂吉への憧憬を一途に温め通した彼女を動かすことはできなかったと考えるのが正解でしょ。そのような彼女だから一層、、、。もうダメ。茂吉記念館に立ち寄らなきゃよかった(・_・、)、、。もう止めます(嗚咽)。
2件とも、なんとも熱烈なレビューだが、引用しなかったもう1件はもっとすごい。そして、斎藤茂吉の熱烈さは、レビュアーたちをさらに上回るものであったことは当然である。
永井ふさ子は本名を永井フサといい、1909年に四国・松山に生まれ、1993年に没した。正岡子規とも縁戚関係にあり、ふさ子の父は、子規を「のぼさん」と呼ぶ間柄だったという。子規の本名は「升(のぼる)」という。余談だが、9年前(2005年)に一度、松山の「坊っちゃんスタジアム」にまでプロ野球の試合(阪神対広島戦)を見に行ったことがある。JR四国は、球場の最寄り駅である予讃線市坪駅に「の・ボール駅」という愛称をつけていた。
斎藤茂吉と永井ふさ子が初めて出会ったのは、子規の三十三回忌にあたる1934年(昭和9年)9月16日に向島百花園(東京都墨田区)で行われた「正岡子規忌歌会」においてであったという。以降の茂吉の狂態はたいへんなものだった。
ネット検索で見つけた http://www.shimintimes.co.jp/yomi/aruku/217.html より。
なにごとにも示さずにおかなかった茂吉の本気と熱中は、かくのごときものであった。それは十七冊の歌集をふくむ巨大な全集となって結実したが、わけても滑稽(こっけい)と言おうか、悲惨と言おうか、ほかに言いようのない本気と熱中を見せたのは、中国のいくさがはじまって以来の戦時詠であった。 (中略)
いくらあげてもきりがない。空襲で、一夜にして、何万の家が焼かれ、何十万のいのちが失われようと、天皇のいます都は、光くまなし、などとうそぶく人 を、僕はとうてい詩人などとは思えない。(『安曇野』第五部 その二十三)
〔注〕僕=臼井吉見
境を前に心燃やす
「さむざむと水泡(みなわ)を寄する風ふきてわがかたはらに生けるもの見ず」
斎藤茂吉(もきち)が昭和八(一九三三)年の歌集『白桃(しろもも)』の上高地吟行(ぎんこう)で歌った一首。茂吉の心の寒々しさが、初冬の上高地の寂しい景色に投影されている。
この年茂吉は「精神的負傷」のただ中にあった。
十一月八日、新聞各紙が妻輝子(てるこ)に関するスキャンダル、いわゆる「ダンスホール事件」を報じた。東京銀座のダンスホールの不良ダンス教師に、有閑女性たちが群がって不倫関係を結んでいたという内容で、輝子もその一人だった。
「某(ぼう)病院長夫人語る」と、輝子の談話まで載り、輝子は食事やドライブは認めるものの、「田舎のモボみたいで低級」なダンス教師にそれ以上の関心はなかった、と否定している。
事実か否かは別として茂吉の受けた打撃は大きく、日記には「夜半ニ夢視(み)テサメ、胸苦シク、…」といった記述が見られる。
茂吉は輝子に家を出るよう命じ、青山脳病院院長の職も辞そうとした。輝子は母の生家などを転々、別居は昭和二十年まで続いた。
独り身となった五十代半ばの茂吉に一人の愛弟子(まなでし)が現れ、深い関係に陥る。その狂おしいばかりの恋愛が茂吉の苦悶(くもん)、孤独をさらに深める。
愛弟子の名は永井ふさ子。八年に短歌結社「アララギ」に入会、茂吉の添削を受けるようになった。美貌(びぼう)と才気にあふれる二十四歳だった。
二人の関係が白日の下にさらされたのは、茂吉の死後十年、ふさ子が昭和三十八年の『小説中央公論』に八十通もの茂吉の書簡を突然発表したことによる。そ れまで茂吉の日記に登場するふさ子は、師弟関係の域を出ていなかった。茂吉はこの愛人の存在が世間に知られるのを恐れ、細心の注意をはらってひた隠しにしていたのだ。
茂吉はふさ子に、手紙を読んだら必ず燃やしてほしい、そうすれば次々心のありたけを伝える、手紙を世人に示すのは罪悪で、自分の全集に書簡を入れさせないのはそのためだ、と書き送った。彼女は三十通ほどは焼き捨てたものの、あとは残し、焼き捨てる前に大事な文面や歌を手帳に書き留めてもいた。
「ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか。(中略)今度の御写真を見て、光がさすやうで勿体(もったい)ないやうにおもひます。近よりがたいやうな美しさです」「ふさ子さん、何といふなつかしい御手紙でせう。実際たましひはぬけてしまひます。ああ恋しくてもう駄目です。しかし老境は静寂を要求します」云々(うんぬん)。
茂吉の二男で旧制松本高等学校出身の作家、北杜夫(もりお)さんは「古来多くの恋文はあるが、これほど赤裸々でうぶな文章は多くはあるまい」とみる。 (評伝『茂吉彷徨(ほうこう)』)
実際、手紙には愛欲の喜悦や嫉妬(しっと)、道をはずした苦悩がつづられている。
……十九年夏、箱根の茂吉の山荘にふさ子が訪れたのが二人が会った最後である。そして二十年四月、茂吉が戦時下の空襲を避けるため、故郷山形へ疎開したのを機に文通は断たれた。
「拝啓 きびしき折柄(おりがら)おかはりありませんか、信州の伊那にしようか、山形県の上ノ山(かみのやま)にしようかと存じ、難儀して上ノ山にまゐり、(中略)気候不順で、蔵王(ざおう)山にはまだ雪が降ります。もう遥(はる)かになりました。どうぞ御大切にして下さい」
妻の愛が得られなかった茂吉が、老境の坂にさしかかる前、密(ひそ)やかに、しかし烈(はげ)しく燃えた。この事実から目を背(そむ)けては大歌人、斎藤茂吉の真の評価につながらないし、人間茂吉を知ることにもならないだろう。
ふさ子は平成四(一九九二)年六月、八十二歳で没した。茂吉への想(おも)いを断ち切るため、関係当時、岡山の男性と婚約(一年後解消)したが、結局誰にも嫁がない一生だった。
文と写真/赤羽康男
上記引用文中、ふさ子の没年を1992年としているが、北杜夫の『茂吉彷徨』にも「平成四年六月にこの世を去った。」(184頁)とある。しかし、私が確認した限り、ふさ子の命日は1993年6月8日*1である。
引用文の最後に「茂吉への想(おも)いを断ち切るため、関係当時、岡山の男性と婚約(一年後解消)したが、結局誰にも嫁がない一生だった。」とあるが、そこに至るまでの茂吉の悪行は、ここに書き記すだけでも胸がムカムカするほどひどいものだった。最初茂吉は、作歌上の弟子ながら自分よりはるか年上、当時70歳の山中範太郎とふさ子との仲を疑い、
○これは私の非常な御願ひですけれども、東京に居られる時山中翁と御二人ぎりで散歩されたり、トンカツ食べられたり、映画見たりしないで下さいませんか。我儘ですみませんが、此処へ来て、心が乱れるのは、苦しくてたまりません。(略)
などと松山のふさ子に手紙を書き送っている*2。山中氏への嫉妬、というと、昨今話題の「STAP細胞問題」でしばしば指摘される笹井芳樹を連想させるが、大歌人の内実がとんでもない破廉恥漢であったと同様、大科学者といえども(略)と邪推してしまう。それはともかく、茂吉自身はふさ子と結婚するつもりなど全くなかったから、1937年にふさ子の見合いの話が出た時にも、それには反対しなかった。以下本書から引用する*3。
ふさ子は四月、岡山で牧野という男と見合をする。それに対して茂吉は反対せず、嫉妬もしない。むしろすすめるような具合である。どうせ一緒になれないなら、ふさ子が結婚したほうが無難であると思っているふしがある。その点、茂吉は利己的であった。
ふさ子と牧野は、結納も済ませ、時には宮島や別府などへも遊びに行くようになったが、ふさ子の心は茂吉に支配されたままで、婚約者との語らいを逐一茂吉に報告していた。そして、婚約者・牧野の意見により、結婚の支度のためにふさ子が上京すると、先に岡山に帰った牧野が待つ約束の日を過ぎてもなかなか帰らず、ふさ子の東京滞在は3か月にも達した。だが、東京でふさ子に問い詰められた茂吉は、ふさ子を満足させる返事をせず、ふさ子は帰郷後病みついてしまい、牧野との婚約はふさ子によって破棄された。ことの真相の一切を知ったふさ子の父親は、そのショックからか病を得て、翌1938年に世を去ってしまった。そしてふさ子自身も一生独身を貫いたのだった。
「ダンスホール事件」の比ではない悪逆非道の行いと思われるが、斎藤茂吉の生前にはこれらの経緯は一切知られていなかった。明るみに出たのは、茂吉没後10年にあたる1963年に永井ふさ子自身が、『女性セブン』に「悲しき愛の記憶に生きて」と題した手記を発表するとともに、茂吉から受け取った書簡を『小説中央公論』に発表した時だった。この時まで、北杜夫を含む斎藤家の家族にも、茂吉とふさ子との関係は知らされなかったという*4。
これに加えて、茂吉は数々の戦意昂揚の歌を作った悪行もなしているが、これについては北杜夫は、
私はこれらの人々を批判することはできない。いくら年少とはいえ、私もまた敗戦の時まではずっと米英撃滅を念じた軍国少年であったからである。
と不問に付してしまっている。たかが一人の「軍国少年」(北杜夫)と、著名な歌人にして精神科医という「文化人」(斎藤茂吉)とでは、その戦争責任は同列に論じられるべきであろうはずがなかろうと私は思うが、このあたりが基本的に保守的な人であった北杜夫の限界だろう。しかし、北杜夫や永井ふさ子が、斎藤茂吉の「偉大なる歌人」以外の面を書き残してくれたことは後世の人間にとっては幸いだった。芸術作品とその作者の人格との間に大きな乖離があることは、何も文学の世界に限らないことは当然である。それは科学技術の世界でなしとげられた業績についても同じであって、たとえばトランジスタを発明したウィリアム・ショックレーは極悪なレイシスト(人種差別主義者)だった。
やっぱり長くなってしまった。それでも同じ著者の『壮年茂吉』について書いた時よりは早く書き上がった。北杜夫の「茂吉四部作」も、あと最後の『茂吉晩年』を残すのみとなった。
他に、3月末からこれまでの間に読んだ本で、まだ当ダイアリーに取り上げていなかったものを記録しておく。
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