kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

北杜夫『壮年茂吉』を読む

先月から北杜夫後期の作品である「斎藤茂吉評伝四部作」を読んでいる。その第二部を読み終えた。



この四部作を読もうと思ったきっかけの一つは、『楡家の人びと』と大日本帝国の「没落」 - kojitakenの日記(2014年2月1日)に感想文を書いた北杜夫の代表作『楡家の人びと』のモデルの1人である歌人斎藤茂吉が、1923年にヒトラーとその一味が暴動を起こした時、その現場であるミュンヘンに居合わせ、ヒトラーにシンパシーを抱いた茂吉はのちに戦意を昂揚する歌を多く作った(その一例として、「皇紀二千六百年」(1940年, 昭和15年)元旦付の朝日新聞に掲載された歌が『楡家の人びと』に出てくる)ことであり、『楡家の人びと』の作者・北杜夫がリアルの斎藤茂吉の評伝をも残していることを知って、これも読みたいと思ったのだった。

著者の北杜夫は基本的にノンポリだったが、親友として知られた遠藤周作と同様、右翼の阿川弘之とたいへん親しかったらしいから、保守的な考え方に親和性が強かった人だったと考えて良いだろう。茂吉評伝四部作は岩波の『図書』に連載されたが、岩波の編集者について、

(彼は大左翼であり、しょっちゅう阿川弘之氏や私と口論している)

と書いている*1

だから著者に斎藤茂吉の戦争責任の追及を期待しても無駄である。しかし、著者は現在の日本でのさばっている歴史修正主義者とも全く異なり、先の戦争を肯定する姿勢は全く持っていない。だからネトウヨから見れば北杜夫もまた「サヨク」に見えるに違いない。

また、本書で著者は茂吉のユダヤ人に対する認識の問題点を、研究書を引用しながら指摘している。このあたりは現在でもたとえば「小沢信者」の間にも広く蔓延している「ユダヤ陰謀論」とも通底する問題点の指摘であって、彼ら(「小沢信者」ども)にとっても耳の痛い話であろう。たとえば茂吉はドイツ留学で教えを受けたユダヤ系のマールブルク教授について、

『教授も猶太系の人ゆゑ口の上手な割に真実性に乏しいやうです。しかし今更やめるわけにも行きませんから、大に勉強してゐます』(大正十一年五月三日付前田茂三郎宛)

などと書いている*2。著者は、その茂吉のユダヤ人観について、徳永恂氏の研究書に「茂吉の滞欧経験の意外な貧しさ」や「異文化理解の歪みと浅さ」とあるのを「この徳永氏の指摘はほとんど正しい」と肯定する*3。また、ヒトラーの暴動事件を味わった茂吉は、ヒトラーが眼の仇にするマルクス主義の大体を知ろうとして、本屋に頼み十冊ばかりの書物を入手したが、「曲りなりにも茂吉が読破したのは、レンツの『国家とマルキシズム』という小冊子だけだったようである」*4との徳永氏の酷評も引用している。さらに、「(徳永氏が書いた)後半の「茂吉とユダヤ人問題」では、茂吉がユダヤ人にこだわり、「好奇心」を抱きながら、結局はステレオタイプ化した形の日本人のユダヤ人観から抜け出せなかったことを詳細に書かれている」*5として、再度徳永氏の文章から「茂吉のユダヤ人観を貫いているのは、ほとんど惰性と言っていい自己肯定の一貫性であり、東北農村の土着性に根ざした、あるふてぶてしさと休息である」*6との論評を引用している。

しかし、そんなことを書いた著者自身が、その直後の文章で、一転して卓袱台をひっくり返してしまうのである。以下引用する。

 だが、「滞欧経験の意外な貧しさ」にしろ、「文明批評の無さ」にしろ、私に言わせればむしろ当り前のことであり、茂吉にこれを要求するのは無いものねだりと断言してもよいのではないだろうか。もともと斎藤家の人間は論理的思考に乏しいし、茂吉にしろその例外ではない。あえて強調したいが、茂吉が生じっか「文明批評」を成す頭脳を持っていたならば、あれだけの秀歌が果たして生まれたであろうか。

(『壮年茂吉―「つゆじも」~「ともしび」時代』(岩波現代文庫,2001;単行本初出は岩波書店1993)107頁)

そして突如として、著者と宮脇俊三氏が交わしたモーツァルトベートーヴェンの音楽の比較に話が飛ぶ。どうやら文章が書かれたのは、モーツァルトの没後200年に当たる1991年だったらしい。著者はモーツァルトの方がベートーヴェンよりも音楽的に上だったのではないかと言い、それに対してモーツァルトの研究家でもあったという宮脇氏が同調し、「モーツァルトは音楽そのもの、水のような音楽だが、ベートーヴェンには音楽でない要素が入っている」と応じる。二人はモーツァルトには思想がなかったという点で意見が一致し、著者は斎藤茂吉モーツァルトになぞらえる。こういった突然の転換がしばしば見られるのも、(まだ前半の二作しか読んでいないが)この四部作の特徴といえるかもしれない。

さて、四部作は一章ごとに、冒頭に茂吉の歌を掲げ、そのあとに茂吉の歌に関する論評や、茂吉やその一家の人たちへの言及がなされるというスタイルで書かれている。当然ながら言及の対象は著者の父・茂吉だけに限らず、著者の兄や姉妹もしばしば登場する。本書から一例を挙げてみる。

 いつか「図書」に、茂太は、茂吉の血液型をO型だと知り、感激した様子でO型による性格分析を試みているが、これはいかにも茂太先生にふさわしくない。血液型を性格と結びつける研究は、昭和初期から行われているが、あれは赤血球の、それも一面だけからの確率論に過ぎない。私に言わせれば、手相と似たようなエセ科学である。それなのに、血液型によって結婚の相手を決めたり、社員を選んだりする今の風潮は、まさしく噴飯もので、私はここに声を大にして訴えざるを得ない。
(『壮年茂吉―「つゆじも」~「ともしび」時代』(岩波現代文庫,2001)184頁)

「茂太」とはいうまでもなく著者の兄、斎藤茂太(1916-2006)だが、プロの精神科医であった斎藤茂太までもが「血液型性格論」なる典型的なニセ科学に冒されていたとはと、その害毒の拡がりに呆れるほかない。もちろん私は、これをスッパリと斬り捨てて批判した著者に拍手喝采を送るものである。

ところで、『楡家の人びと』を読んで気になっていたことが、この本で一つはっきりした。

それは、『楡家』第3部の主要登場人物である徹吉(斎藤茂吉がモデルだが、茂吉から歌人としての面を完全に切り落とし、精神科医としてのみ描かれている)の長女・藍子と戦死したその婚約者・城木達紀をめぐる話である。

小説では、藍子の婚約者は藍子と結婚することなく空母・瑞鶴で戦死してしまうが、そのモデルとなった宮尾直哉氏は昭和18年に瑞鶴を降りて特設砲艦第二新興丸に乗艦し、無事生きて終戦を迎えた。そして北杜夫の姉とはこれまた無事に、戦争中に結婚したのであった。

著者・北杜夫の姉は百子(ももこ)と言った。「ももこ」といえば三島由紀夫に「何という可愛い、魅力のある少女でしょう」と言わしめた『楡家』第1部からの登場人物・桃子が思い出されるが、桃子のモデルとなった著者の叔母は「愛子」といった。つまり、著者は「アイコ」と「モモコ」とを入れ替えた上、漢字も変えた。「桃子」のモデルは「愛子」であり、「藍子」のモデルは「百子」だったのである。なかなか凝った趣向である。

その著者の姉・百子には、斎藤茂吉の実の娘ではなかったのではないかという疑惑があった。著者はこのことを本書で取り上げている。実は私は『楡家の人びと』の感想文を書いた際にかけたネット検索によってこれを知り、それもこの四部作を読もうと思ったきっかけになった。

以下本書より引用する。

 だが、やがて長女百子が生れることとなる。崇拝する父紀一の反対を押し切ってまで、輝子がヨーロッパへ夫を迎えにゆき、二人がパリで落ちあったのは大正十三年七月二十三日である。そして百子が生れたのは翌年二月二十三日であった。パリの宿で直ちに二人が交合したとしてもわずか七カ月である。医学的には必ずしも例をみないわけではないとしても、昔としては早産に過ぎる。兄は赤子の百子の身体の冷えたのを自分の布団に入れて暖めてやったと語っているが、まさか生れたての乳飲子の頃ではあるまい。

 ここに、百子は茂吉の子ではないという説が生れる。肉親としてこんなことは書きたくないが、すでに他の研究者の方が指摘しているので、私は文学者の一人としてやむを得ないことだ。

 つまり、輝子は浮気をして妊娠し、それを糊塗するため強引に渡航し、夫と寝たというのだ。この愛人には歌舞伎役者説もあるが、紀一の長男西洋の妻淑子はこれを否定している。しかし、彼女はこう語ったこともある。「それは公然の秘密だったのよ」と。この頃淑子はまだ結婚していなかったから、のちに夫などから聞いた話であろう。ちなみに彼女はそもそも結婚するのを好まず、嫌々西洋の嫁になったところ、斎藤家の人々があまりに自分の生家(浅田飴を作る商家であった)で見知った人と異なっていたため、すべての斎藤家の人間、なかんずく輝子には良い印象を抱いていない。従って、淑子の発言には誇張もあろうが、根は正直な、後年にはズケズケものを言う叔母であった。

(中略)

 私の推測はやはりこうである。断言はできぬが、百子が茂吉の子でない可能性の方が高いと。

(『壮年茂吉―「つゆじも」~「ともしび」時代』(岩波現代文庫,2001)155-157頁)

しかし、その数頁後には、一転して自らの推測を否定する文章が「追記」として書かれている。

[追記]

 百子は茂吉の子供でないようなことを書いたけれど、のちにいろいろ考えて、次のように判断を下した。

(中略)

 もっとも重要な、百子がもし輝子が留学を終えた茂吉を迎えにヨーロッパへ行き、最初に会ったパリで妊娠したとすれば、誕生まであまりに短かく無事に出産したかという疑問だが、これも医学的に言って決して珍しいことではない。要するに百子が茂吉の子ではないという説は、学問的には立証できない。

 私がはじめ百子が茂吉の子ではないという説に固執したのは、ある学者の指摘によるものであるけれど、のちになって思えば、非才ではあるが文学者の一人として、なまじ肉親の情から離れたかったのではあるまいか。

 結論を述べれば、私はやはり百子は茂吉の子であったと思う。学者の指摘の全部を否定する科学的根拠もないけれど、これは血のささやきによる直感である。

(『壮年茂吉―「つゆじも」~「ともしび」時代』(岩波現代文庫,2001)155-157頁)

正直言って、実の姉について、父の子ではなかったのではないかと書いたかと思うと、一転してやはり実の子だったと思うなどと書いて、記述が混乱したまま本にしてしまったあたりに、著者自身が後半生において苦しめられた疾患の影響を感じずにはいられないのだが、著者の意見の転換には一つ、本書には書かれていない大きな理由があったことがネット検索によってわかった。

というのは、上記の岩波現代文庫版からの引用文に

二人がパリで落ちあったのは大正十三年七月二十三日である。

と書かれている箇所は、「図書」への連載当時には(もしかしたら1993年発行の単行本にも)、「七月二十三日」ではなく「八月二十三日」と書かれており、それに対応して、夫婦の再会から百子誕生まで「わずか七カ月である」という箇所も、元々は「わずか六カ月である」と書かれていたのだった。しかし、実際に斎藤茂太と妻・輝子が再会したのは、現在の版に書かれている通り、1924年7月23日だった。つまり、当初著者は再会の日を1か月間違えるという、大きな勘違いをしていたのである。

この1か月の違いは大きい。私は上記の事情など知らずに読んだので、「7か月は確かに早産だけれど、それだけで実の子ではないと疑うとは少々乱暴ではないか」と思った。しかし6か月であれば、疑うに足る理由であると思える。

気になるのは、岩波現代文庫版には、当初著者が誤りを犯していたことはおろか、「追記」がいつなされたものであるかも全く記されていないことである。だから、私はネット検索によってやっとこさこの事実をつかんだ。著者の精神疾患の影響よりも、岩波書店の編集のあり方の方が、もっと私には気になる。こういった点に厳格なのが、(かつての)岩波の編集の特徴だったはずだと思うのだが。

上記2箇所の間に挟まれた部分に、著者は下記のように書いている。

 私は百子に鋏で追いかけられもしたけれど、正直に言ってこの姉が好きであった。子供心にも、東洋英和のエビ茶のスカーフをつけた制服姿の姉は可憐に見えたし、事実、百子にはS(生徒同士好きになって恋文めいたものを靴などに入れた由だ)がかなりいたことは確かである。ただ、「楡家」の中のスウェーデン人との混血少女がSであったことはフィクションである。そういう少女が、百子の弟もきっと可愛い少年であろうと錯覚して、家に私を見にくることもあった。

 姉百子は、茂太の中学生時代からの友人、宮尾直哉と戦争中に結婚し、二子をもうけたが、私のマンボウ航海中に死亡した。

(壮年茂吉―「つゆじも」~「ともしび」時代(岩波現代文庫,2001)160頁)

著者が水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海したのは、1958年11月から翌1959年4月にかけてのことだった。百子は著者より2歳上とのことだから、1925年2月23日生まれということになる。つまり彼女は、33歳か34歳の若さで亡くなった。『楡家の人びと』の第3部が書かれたのはそれから約5年後のことだった。婚約者を戦争で失い、物語の最後には顔に大火傷を負った「藍子」のモデルとなった著者の姉・百子は、小説とは違って恋人は無事帰還し、結婚して二児をもうけた(おそらく顔に火傷も負わなかっただろう)けれども、早世してしまった。その運命が作中の「藍子」にも反映されたのかもしれないと思う。

四部作は、このあと第3作『茂吉彷徨』と第4作『茂吉晩年』と続く。次の『茂吉彷徨』には戦争中の茂吉が描かれているはずである。

*1:本書162頁

*2:本書93頁

*3:本書105頁

*4:本書105頁

*5:本書106頁

*6:本書106頁