今日から7月。しかし2025年前半最後の日だった昨日(6/30)は先週の疲れをまだ取り切れてなくてやや不調の一日だった。
2025年の後半最初の今日はお知らせの記事。
昨日、鍋ブログと討論会ブログへの参加をお誘いしたみらい(id:mirai20259)さんからコメント欄にてお返事をいただいた。以下に紹介する。
丁寧なお返事をいただいた上、共有ブログへのご加入のお誘いにも応じていただき、どうもありがとうございました。
さきほど、みらいさんの討論会ブログ及び鍋ブログへの「編集者権限」登録を行いました。
記事の投稿については、鍋ブログについては言い出しっぺの私の方から、たぶんこの土日あたりになってしまうと思いますが、みらいさんの弊ブログへのコメントを紹介する記事を公開したいと思います。
「表現の自由」の方は、二度手間になり、しかもいきなりのブログ記事投稿のお願いになって申し訳ありませんが、上記の内容の記事をあらためてご投稿いただければ幸いです。もちろん自由討論会ブログへのコメントの形でも差し支えありません。
よろしくお願いいたします。
なお、両ブログとも新規参加者募集中です。自由討論会ブログの方は今のところ「(エンターテインメントの)表現の自由」に関する議題しか出ていない状況ですが、それに議題を限定したブログでもありません。「表現の自由」についての議論も、ひところよりも投稿やコメントの頻度が減っていることもありますので、新規のテーマに関する記事も大歓迎です。こちらにつきましてもよろしくお願いいたします。
みらい mirai20259 です。
もともとはてなIDの取得は、HRK-Unidonさんによる「HRK-Unidonの表現の自由に関するスタンス https://free-discussion-in-time-of-chaos.hatenadiary.com/entry/2025/06/16/130115」という記事の「当該創作物において実在個人に対する誹謗中傷や差別的発言が存在する場合は民事訴訟(侮辱・名誉毀損の不法行為)で解決して欲しいものです」という記述を読んで触発されたものでした(以下、結局長くなりましたし、共用ブログに書くべき内容になってしまいますが、流れ上投稿させてください)。
■具体的には、明確に「誹謗中傷や差別的発言」だとわかる言動(言葉の暴力)について「表現」というヴェールをかぶせること、それにより、立法や行政による「表現-規制」が行われるとして一律に「規制」を忌避する姿勢は、合理的ではない、と伝えたくなったのです。大前提として、一般に
1.物理的な暴力についての「規制」も個人の行為の「封殺」であることは誰もが認めるし、
2.おそらくその「規制」を否定する人もほとんどいない
はずです。
HRK-Unidon さんも同様なのであれば、HRK-Unidonさんは、上のことと整合的な議論をできていないと思います。「(物理的暴力に至らない)言葉の暴力」も行為であるなら、そのような行為を「主張」とか「表現」と名指せることを理由に規制の対象としないことに、理由などないからです。行為に対する評価やそれに基づく対応は、形式的な名づけではなく、それが何をもたらすかで考えるのが道理にかなっています。
誹謗中傷や差別的発言・表現は、類型的にその被害者を深く傷つけるものです。ときにはそれ自体が人を自殺に追い込むこともあります。また、新たな誹謗中傷や差別的発言・表現、物理的な暴力への扇動にも繋がったりします。このことはHRK-Unidonさんもご存じだと思われる周知の事実です。類型化が可能なのであれば、そうした類型に対応する行為を一般的に規制することは当然正当化可能です。むしろ、包括的な差別禁止法がないほうがおかしいです。
誹謗中傷については、個別の発言をとって切り分けようとすれば、類型化の難しさはありますが、集団的にそれが増幅している状況を見て、どこかで切り分けができないというのもおかしな話です。単発で「死ねばいいのに」という記述が含まれていることを捉えて規制するのは明らかに行き過ぎですが、「死ねばいいのに」に類する言葉を連日のように繰り返して・繰り返されている状況を見て、そこに何らの暴力性(≒規制の必要性)も認めないというのはどうかしています。また、私たちは暴力事件が発生した際の事前の行政の対応が問題になる場合、(合理的に)介入ができたのではないかと言ったりしますが、それが言えるのであれば、差別・誹謗中傷についても同様の介入が可能ではないかと疑問を抱くのは当然のはずです。
重ねて付け加えるなら、類型的に他人を深く傷つける行為なら、例えばそれが「信仰」の外観を持たされていたとしても、その内実-結果に着目して規制するという結論が妥当であることは、旧統一教会の事例などを考えても明白です。「信仰」が「主張・表現」になれば、何でも保護されるという考えに根拠はありません。
■おそらく、HRK-Unidonさんのような人たちが上記のような点を見落とすのは、守られるべき表現のイメージがまずあって、それを守るために論を立てているからだと想像します。具体的には、性的とされる表現が含まれるものの、「他害性がない」と観念できる創作物のイメージがまずあって、それを「表現の自由」のもとで守るためにはどう論ずれば良いか、という順番で考えているのだと思います。
しかし、「表現の自由」に限らず、そもそも「自由」というものが、「他害性がない」ことがそれを認める条件だと同意いただけるのであれば、他害性がないイメージをまず立てて、そこから他害に至らない範囲を自由の範囲として確保するというロジックでは、他害性がないことは保障されないのです。なぜなら、よく言われるように、誰も傷つけない「自由」などないというジレンマがあるからで、表現の場合にはなおのことそれがあてはまるからです。このジレンマを解決するためには、他害性の可能性を立てて、そこで互いに受け入れ可能なラインを設定し、そのラインを了解しあっていくというプロセスが必要になります。私たちは何かが他害的であることについて、互いの想像で理解するのには限界があるため、現実に傷つけられた経験を持つ人たちの立場を汲むことによらなければならないからです。
■表現に傷つけられる人がいる一方で、表現の機会が奪われればそれにより何らかの意味で(自由が)傷つく、といった形式的で二項対立的で争いしか生まないロジックを回避するためには、前段部分の「表現に傷つけられる」、後段部分の「傷つく」という言葉に対応する現実についての感受性を、私たち相互が養う必要があります。ただ、公平の観点からすれば、現状は「表現に傷つけられる」事態、そしてむしろそれによってこそ「表現の機会が奪われ」「(自由が)傷つく」ことへの黙殺こそが、あからさまに存在します(この構図を直観的によく理解するためには、anoの「普変」というMV(無料で誰でも見られます)を見るのがお勧めです。おかしな言い方ですが「ちゅ、多様性。」と同じかそれ以上に見られてしかるべきMVだと思います)。先に「むしろ、包括的な差別禁止法がないほうがおかしいです。」と断言したゆえんです。
…私の印象としては、上記の理屈について仮にHRK-Unidonさんに納得してもらえるなら、他の様々な点についての討論についても、もっと建設的なものになるのではないかという印象があります。逆にもしそういう方向に行かないようであれば、それに対応し続ける自信はないというのが正直なところです。
私はそもそも、kojitaken さんのブログを、その基本的なスタンスとか調子が信頼できるし好きなので、読ませてもらっています(政治的なそれも、野球や音楽の記事から伺える人に対する見方も)。コメントもその延長でさせていただいただけのつもりでした。私は自分の問題意識に引き付けて語れそうなときにコメントすることはできますが、宮武さんの専門性も、レバ子さんみたいな知識もないです。共用ブログに参加できるほど各種の情況も追いかけられていません。
ただ、kojitakenさんが「集合知」について語ってくださったのを見て、参加してみようかなと思えました。参加してもそんなに記事を公開したりなどできないかもしれませんが、お誘いは受けたいと思います。よろしくお願いします。コメントの紹介記事については、長くなってしまった今回のコメントも含め、kojitakenさんの判断にお任せします。
(先に投稿したコメント、長くなったので少しでも読みやすくするために■を入れたりしました。前回の投稿は無視して、今回の投稿を反映してください。お手数かけてすみません>kojitakenさん)