kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「和製トマソン」清原和博、四国遍路で「トマソン」ゆかりの海部を訪れる

安保法案の件は書くのも気が滅入るので、今日は現実逃避する。

高校野球のヒーローから西武ライオンズ入りしてスター選手となったものの、1996年のオフにFA宣言してあの日本野球界の癌・読売軍に移籍したのを境に坂道を転落するかのような悲惨な人生を歩んだ清原和博*1が四国遍路をしているらしい*2

清原氏「お遍路」に密着 全てを失い、道中で深める「ざんげの念」― スポニチ Sponichi Annex 芸能 より

清原氏「お遍路」に密着 全てを失い、道中で深める「ざんげの念」

 この1年ほとんど公の場に姿を現すことがなかった、西武、巨人などで活躍した元プロ野球選手の清原和博氏(47)は今、四国霊場八十八カ所を巡る「お遍路」を歩いている。薬物使用疑惑報道によるイメージ悪化と離婚で、家族も友人も仕事も失った男は旅先で何に触れ、何を感じているのか――。そのうちの1日、約15キロの道のりに同行し、胸中に迫った。

 4月下旬、午前8時すぎ。高知との県境まであと10キロに迫る徳島・海部駅前。菅笠(すげがさ)に白装束の清原氏が金剛杖(こんごうじょう)を突いて歩いていた。現役時代に故障した左足を引きずる姿が痛々しい。こわもてをさらに険しく曇らせながら、山と海に囲まれた四国路を進んだ。

 同じスタイルの「お遍路さん」はほかにもいるが、黒い肌と大きな体がひときわ目立つ。「清原や!」「大きいなぁ」。数十メートル進むごとに握手やサイン、記念撮影を求める人が次々に集まってきた。清原氏は表情こそ硬いままだが、そのほとんどに立ち止まって対応。飲み物や食べ物などの差し入れを受けると、お遍路の名刺にあたる「納め札」をお礼に手渡した。

 四国路に出たのは3月16日。1年間で全てを失ったことがきっかけだった。

 「昨年3月の(週刊誌の薬物使用疑惑)報道に始まり離婚もあって、仕事が減り周りから人もいなくなった」。自暴自棄になる中、自殺も考えたというが「息子2人のおかげで生きていられる。自分自身を見つめ直すため行動に移そうと思った」。選んだのがお遍路。「現役時代、両親が2度も歩いてくれた。そのお母さんが体調を崩していて、病気を患っている友人もいる。僕は2人のために頑張りたかったし、自分自身の修行でもある」

 週末は、離れて暮らす息子2人の少年野球を見守る大切な時間。そして、平日に八十八カ所を少しずつ回る「区切り打ち」を重ねる。「区切り打ち」とは1200キロを超える全行程を何度かに分けて歩く巡拝方法。これまでの生き方に区切りをつけたいと願う気持ちに重なるのは何かの縁か。今月10日までに約300キロを踏破。1番札所の霊山寺から23番の薬王寺まで参拝した。

 道中では「ざんげの念を深めている」。家族や友人が離れてしまったのは自身の責任もあったと自覚しており「応援してもらって当たり前と思っていた。もっと家族や周囲への感謝の気持ちを大切にしなければいけなかった」と悔やむ。

スポーツニッポン 2015年5月12日 10:05)


四国には週末遍路(土日遍路)をする人もいて、私もかつてその真似事をしていたことがあるが、自宅からもっとも遠かった高知県西部から愛媛県南西部にかけては歩き残した。観光で、弘法大師が訪れ得なかったという「見残し」に、関西からと首都圏からのそれぞれ一度ずつを合わせて計3回も行ったことがあるというのに。

で、海部(かいふ)は徳島県最後の23番札所・薬王寺から高知県最初の24番札所・最御崎寺に至る長い長い道のりの途中、徳島県高知県の県境近くにある。ここには、「読売のダメ選手」という意味で清原和博と大いなる共通点のある「トマソン」の名所があるのだ。昨年、赤瀬川原平の訃報に接した時に知り、というか約30年ぶりに記憶を想起され、記事を書いた。

赤瀬川原平といえば「櫻画報・朝日ジャーナル回収事件」と「トマソン」 - kojitakenの日記(2014年10月28日)より

(前略)「トマソン」について少し書いておく。「トマソン」に関してネット検索をかけたら、徳島県海部駅付近の「山のないトンネル」が出てきて、懐かしく思い出した。「Wikipedia 海部駅」によると、

当駅北側の牟岐線上にある町内(まちうち)トンネルは、当初は山を貫いていたが、宅地開発などによって山が切り崩された結果、構造物のみのトンネルとなり、赤瀬川原平の『超芸術トマソン』に「純粋トンネル」として紹介されたり、テレビ番組(「巨泉のこんなモノいらない!?」など)、「Rail Magazine」(ネコパブリッシング)連載の「トワイライトゾ〜ン」等でも多数取り上げられ、一躍有名になった。

とのことだ。このトンネルの写真の印象は強い。とはいえ、昔、四国在住時代に海部駅付近に行った時には「トマソン」の件は覚えてなかったため、この近くは通らなかった。しまった、見に行って写真でも撮っておけば良かったと今にして思ったのだった。

なお、トマソンとは、1981年から82年にかけて、プロ野球・読売球団に所属していたゲーリー・トマソンという選手の名前にちなむ。この選手はスポーツ紙にたびたび「トマ損」と書かれ、(読売球団にとって)役に立たない(=対戦相手の球団にとってはありがたい)選手だった。そのことから、《芸術のように実社会にまるで役に立たないのに芸術のように大事に保存されあたかも美しく展示されているかのようなたたずまいを持っている、それでありながら作品と思って造った者すらいない点で芸術よりも芸術らしい存在=「超芸術」》(Wikipedia「トマソン」より)のうち、特に不動産に関するものを「トマソン」と命名したとのこと。(後略)


そんな「トマソン」のある海部を、「和製ゲーリー・トマソン」とでもいうべき清原和博が歩き遍路で訪れたという符合が面白いと思ったのだ。思えば、清原もトマソン同様、読売生え抜きの選手でないため、読売球団に差別される対象の人間だ。清原の読売移籍1年目の1997年は、読売が前年の「メイクドラマ」から一転して9月初めまで最下位に低迷する一方(読売の最終順位は4位)、野村克也監督率いるヤクルトが会心ペナントレース展開で、8月に一時肉薄された横浜ベイスターズを9月1日の石井一久ノーヒットノーランで突き放して優勝し、日本シリーズでも清原の古巣・西武に4勝1敗で快勝するという(私にとって)日本プロ野球史上空前絶後、最高の年だった。8月に横浜に迫られた時でさえ、かつてのお荷物球団同士のヤクルトと横浜の優勝争いが実現する時代になろうとはと大いに感激し、その頃行われた横浜対読売戦でさえ、優勝争いに関係ない読売よりも優勝争いのライバル横浜を応援した。当時毎日アクセスしていたスワローズの公式サイトの掲示板に、「(横浜と読売が対戦する)この期に及んでもあの球団(読売)だけは応援する気にはならない」と書き込んだ人がいて、大いに共感したものである。とはいえ、その頃「ヤクルトと横浜の優勝争いは二度と味わえないかもしれない」とも思った。当時既に読売の巨大戦力化は着々と進んでいたからである。その後も読売を巨大戦力の効果を長嶋采配が打ち消すシーズンが続いたが、2000年、読売の桁違いの戦力がついに炸裂した。むろん清原も巨大戦力の一翼をなしていた(あまり印象はないが)。以後、20世紀と同じようにはプロ野球に熱中できなくなって今に至る。そういえば昨夜、ヤクルトは7連敗してついに最下位に落ちた。

ヤクルトの話はこれくらいにする。四国遍路とは清原のような人間が歩くにふさわしいところではある。内容の紹介は省略するが、黄金週間中に下記の本を読んだ。



薬王寺から最御崎寺にかけての道は長い。75キロもある。私は薬王寺から高知県東洋町の甲浦まで歩いたあと、別の週の週末に甲浦から最御崎寺まで歩くというインチキをやったが、日曜日と後日の土日で、計3日かかった。甲浦から最御崎寺まで歩いたのは2009年6月、梅雨時だったが晴れの暑い日だった。甲浦は漁港のある小さな集落だが、特別に印象深い。一度訪れたら誰しも忘れられない場所ではないかと思う。私が訪れた時、自転車に乗った少年が挨拶してくれた。

75キロの道のりを、足が悪いという清原はどんなペースで歩いたのか、また道中にあり、かつて菅直人が泊まり、おかみさんにその思い出話を聞かされた宿に清原も泊まったのかなど、興味は尽きない。そのうちゴーストライターが書く「清原和博の遍路本」で明かされるのかもしれないが。

ただ、「和製トマソン」清原が海部にある「トマソン」の史蹟・町内トンネルを訪れた可能性は、残念ながらほとんどないだろう。

*1:清原が読売移籍を決断した時、私の母は「末路が見えてるのにな」と寸評した。私も同感だったが、その予言はもののみごとに的中した。

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150513/1431529036 経由で知る。