kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

小池百合子の先駆者・水野忠邦について

昨日書いた 小池百合子は「水野忠邦の再来」か? - kojitakenの日記 のコメント欄より。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161015/1476504620#c1476509240

id:mtcedar 2016/10/15 14:27

水野忠邦と言えば、天保の改革では髪結いが御法度(違反をすれば丸坊主!)になったり江戸市中での芝居興行を禁じたり(で、結果的に浅草が興行地になった)、庶民から大名まで統制しまくって最後には側近の鳥居耀蔵の離反で失脚する(それでも阿片戦争の煽りの薪水供与令絡みで一時的に復帰したり)など、幕府体制を無理矢理に維持させるためにやらかした印象がありますね。

あと、天保の改革の前の文化・文政の大御所時代に起きた大塩平八郎の乱。その蜂起の名分として大坂商人と幕府高官との癒着が挙げられてますけど、その中の一人に水野の名が挙がったりしてて政治的にも"クリーン"じゃなかったんですよね。

水野忠邦は、この記事の末尾に示すブログ記事にも書かれている通り、ものすごい権力欲の持ち主で、唐津から浜松(城内実の地元ですな。城内のバックにいるスズキ(代表の鈴木修城内実パトロン)と、かつて城内がブログで罵倒したトヨタの提携の話に関する城内のコメントを聞きたい今日この頃ですが)に国替えしたりなどの点でも小池百合子を思わせますが、「大坂商人と幕府高官との癒着が挙げられてますけど、その中の一人に水野の名が挙がったりしてて政治的にも"クリーン"じゃなかった」と聞くと、ますます小池百合子そっくりじゃん、と思ってしまいます。小池は大阪のベッドタウン兵庫県芦屋市の出身ですし、文春に「自民党の身体検査で小池百合子は真っ黒と判定された」と書かれた(今は小池人気が高いので文春も沈黙してますけど)ことがありますし、当然関西(出身)の財界人と癒着もあるでしょう。公私混同についても、政治資金を使って財界人が作る阪神タイガースの応援団体の飲み会に参加していたらしい件など、それこそ舛添要一も真っ青の黒い(せこい?)噂には事欠きません。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161015/1476504620#c1476519615

mtcedar 2016/10/15 17:20

というのか江戸幕府の「三大改革」を政治的反動として捉えるのって案外珍しかったりして、寧ろ文字通りの「改革」として学校では教えられているとこがあるんじゃないかと思います。

逆に元禄や天明の繁栄を齎した徳川綱吉田沼意次がその反動で悪者視されている(生類憐みの令などの失政や天明の飢饉の災害があったり幕府高官と商人の癒着があったりした訳ですけど)面が大きいのではないでしょうか?綱吉の下で勘定奉行だった荻原重秀なぞ、元禄の改鋳による金融緩和によって元禄の繁栄を齎した(その後の宝永の改鋳で悪性インフレを招いた失策もありますが)功績があるのに、その後の新井白石の正徳の改鋳による引き締め(これが金銀の流出を招いて海舶互市新例を出す一因となりますが)で同様に悪者扱いされているんですよね。

確かに1970年頃に描かれたと思われる学習漫画でも、綱吉は「犬公方」としてコケにされてましたし、田沼意次収賄も大げさに描かれる一方、徳川吉宗は正義の味方みたいな描きっぷりだった記憶があります。でも水野忠邦だけは叩かれてたんですよね。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161015/1476504620#c1476550595

id:axfxzo 2016/10/16 01:56

江戸時代の三大改革は入試という入試、必出『お約束』のネタですな。
中興ネタとしてもマツケンとしても有名なあれとて、試験ではききんなどとからめて考えさせるのもありなものでもある。後の二つは言わずもがな、失敗としてのネタである。
改革ってのは結局、シノギ的なものでしょうよ。
ところが改革というのがこの国では絶対正義として『善玉』扱いされてしまう。
水野忠邦なんてものをネタにしているのはナンセンス極まりないが、改革という言葉は現代社会の恐るべきマジックワードだと思うね。
政治家はテレビと手に手をとって改革を叫ぶ!
視聴者様たちは改革に殆ど無批判に追従する。そしてそうした改革は必ず新自由主義路線である(笑)。
テレビ番組も批判をかわすために心得ている。
例えば『劇場型政治というのにも注意をしなければいけませんね』などとコーナーの合間に批判的なコメントを司会者などがやる、あれだ。
ただし、あれをやる時は『これから何とか劇場を始めますよ』というシグナルも兼ねている(笑)。
橋下劇場の時などは、巷間指摘されているところのゲッペルスのCMテクニックみたいなやり方だった。
まず、軽い批判、注意を喚起するような若干の辛口コメントなり報じかたをやる(笑)。しかるにコーナーが進むにつれて『調整されて』き、しまいには改革頑張れで纏められるという展開。
視聴者のクレームから適度にかわせる言い訳をセットしながら改革なるものを正しいものだとライトにポップに纏めていくテレビ。
私が実感として記憶している改革という言葉の賛辞は、ペレストロイカである。あれは和訳すれば改革なのだろう。精悍とした顔つきでソ連という悪の帝国(笑)をぶっ壊すゴルビーは、たしかにかっこよい。ゴルビー自体は社民路線にしたかったのかもしれないが、あれは改革というよりは…後の超混乱期も見ても…革命だと思うけど、とにかく日本では改革が絶対善みたいな風潮ができたように思えた。
マスコミによる小選挙区制度導入という政治改革キャンペーン
規制緩和と富める者により活躍していただきたいみたいな経済改革
問題点を頭を叩き割るか斬り落とすという革命ではなく、改めて良くしていくという『穏健さ』という印象も改革を絶対善とするムードを作るものなのだろう。
でも、それって中身だろ?
改革という言葉の対義語をばら蒔かせたのが、小沢一郎とも念を押しておこう。守旧派…これの烙印を押された側は理屈抜きに悪者である。
ああ、ゴルビーに逆らっていた奴等も守旧派でしたね。たしかに悪者って感じだよ(笑)。そうした印象が支配する時代の転機だったと思う。
もっと古くは中曽根時代のメザシのジイサンだろうが、ペレストロイカほどの強烈なインパクトはない。ただし、改革はとにかく善玉なんだという素地をこさえた点では看過はできないだろう。
しかし、なぜ改革は新自由主義路線の絶対的なシンボルなのだろうか?
今の世の中ならば、こうした路線に対する『改革』こそが人々に好かれるようになるものだと思うが…。
やはりテレビだろう、原因は。

やはりそうでしたか。私は中学・高校時代は歴史も地理も大の苦手でした。中学や高校では歴史も地理も、理科の生物もみんな暗記科目でしたからそれらは全部ひっくるめて苦手だったわけです。しかし、日本史や世界史を選択して文系の学部の論述式試験に挑むとなると(私にはその経験はないわけですが)、江戸幕府の「三大改革」に関する批判的な視座が要求されたってわけですね。一方、学習漫画のレベルではせいぜい水野忠邦が批判される程度で、教科書も(全然覚えていませんが)もしかしたらそれに毛が生えた程度で、相変わらず「吉宗=善玉、綱吉・田沼意次=悪玉」みたいなとらえ方をする人が多数派なのかも知れません。

このコメントを見て、検索語「暴れん坊将軍」でググって知ったのですが、あの番組はなんと1978年から2002年まで、中断を挿みつつ延べ24年間もやってたようです(全12シリーズ。その後もスペシャル番組が製作されており、今のところ最後になっているスペシャル番組は2008年末に放送)。私は最初から「なんだ、あんな反動野郎が主役の番組なんて」と思ったせいもあって(というより、時代劇自体大嫌いなのが最大の理由ですが)、この番組を見たことは一度もありません。でも、いつも見ていた人にとっては「吉宗=正義の味方」なんでしょうかねえ。

そもそも「改革」とは英語では reform であって、旧体制の延命を図る以外の何物でもないことは明らかだと思うのですが。

もちろん、小泉やその前の「政治改革」の時の小沢が言っていた「守旧派」なんて、何言ってんだこの野郎、としか私は思わなかったんですが、小泉時代はもとより、「政治改革」時代の「改革ファシズム」は本当にひどかったですね。あれで、実現不可能と思われた小選挙区制が実現してしまって、その結果今の安倍独裁政権があるわけですから、小沢一郎の罪は万死に値すると思いますよ、掛け値なしに。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161015/1476504620#c1476551077

axfxzo 2016/10/16 02:04

与太話ついでに。
小池百合子水野忠邦となぞられることが正解だったら、こんなに嬉しいことはない(笑)!!!
だって、日本中から総すかんをくらって没落したのだから(笑)。
ただ、そうはなるまい。
今度の補選も小池百合子が絶滅正義みたいに演出される信任投票になるだけであろう。
さらに言えば、そうして信任された奴がものの数ヵ月の内には再び再選されるという気持ち悪さ付きであろう。
それがこの国にどんな害悪をもたらすのか、正にカミングスーン。
崩壊の時代、いよいよ本格始動せり
なのか?
…総選挙まであと何ヵ月?

今後は小池百合子に言及する度に「水野忠邦の再来」とか「現代(平成)の水野忠邦」という枕詞でもつけましょうかね。
それはともかく、選挙は本当に頭が痛いです。右翼出版社・小学館が出している『週刊ポスト』の最新号に、自民党と小池新党と日本維新の会を合わせて400議席だ、3分の2どころか4分の3だ、などと書かれていましたが、「リベラル・左派」の界隈で、「えっ、この人が?」と思う人まで水野忠邦の再来・小池百合子を絶賛している姿を見せつけられると、鬱になってしまいます。「崩壊の時代」という言葉も、これだけリアリティを持って迫ってくると逆に使う気がしなくなってきました。

「本当に狼に襲われた狼少年」の気持ちがわかる今日この頃だったりします。


[付録](2015年6月23日)

水野忠邦「天保の改革」は最初から残念な結果が見えていた? - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

水野忠邦天保の改革」は最初から残念な結果が見えていた?

やる気があるのは結構なことです。
が、能力とかみ合っていないと空回りして、周囲に迷惑をかけることも多く、これに反骨心なんぞが加わった日には目も当てられませんよね。

現代人だけでなく、江戸時代にもそんなタイプと思しき人がおりました。

寛政六年(1851年)6月23日に亡くなった水野忠邦です。
天保の改革」を行ったことで有名な人ですね。

江戸政権下では由緒正しき譜代大名だったが

この人は家康の母・於大の方のお兄さんの血筋で、数ある水野家の中でも由緒正しい家柄でした。

当時の水野家は唐津藩(現・佐賀県)を所領としていましたが、忠邦は18歳で家督を継いだ後、幕府の中心で働きたいと考え、いわゆる「黄金色のおまんじゅう」(古い)を駆使し、どうにか江戸城奏者番(大名と将軍の間の取り次ぎ役)の職をゲット。
しかし、この役職ではとても幕閣とは言えません。さらに出世したいと考えた忠邦は、家の事情に大きな障害があることに気付きます。

唐津藩は長崎周辺の警備を任されていたため、藩主が江戸城に詰めっぱなしというわけにはいかなかったのです。
普通ならここで諦めるところですが、忠邦はそんなことでは退かぬ媚びぬ省みぬのサウザー状態。なんと、25万石の唐津藩を幕府に返し、15万石の浜松藩へ領地替えを願い出て、幕府から許可を得てしまうのです。

もちろん家臣たちは「今ですら余裕があるわけじゃないのに何を考えてるんですか!?」と大反対され、あろうことか家老が諫死するほどの騒ぎになりました。

が、やっぱり退かぬ(ry)状態の忠邦には蚊の羽音ほどの障害にもなりません。もうこの時点で「バカ殿じゃねーか」とツッコミたくなってきますね。ホントご家老って損する立場ですな……。

京都所司代などを経てトントン拍子で出世

それでも、幕府には「領地を減らしてまで働きたいとは神妙なり」とでも思われたらしく、忠邦は狙い通り幕閣の入り口とされていた「寺社奉行」に就くことができました。
すると今度は忠邦へ袖の下を送って、便宜を図ってもらおうとする連中が出てきます。これにより浜松藩の収入+αを得たことで、家臣たちはある程度不平を収めたとか。

いやぁ、自害したご家老が哀れでなりません。二本松義廉(よしかど)という人だったらしいのですが、記録すらあまり残っていませんし……(´;ω;`)

ともかく決して無能ではなかった忠邦は、大坂城代京都所司代を経てから西の丸老中など、とんとん拍子で出世します。

江戸城西の丸とは次代の将軍とみなされた人が暮らすところだったので、そこを任されたということは、将軍から「息子の代も頼むぞよ」と言われたも同然。忠邦はさぞホクホク顔だったことでしょう。
……(アンタのせいで)いなくなったご家老のこと、ときどきでいいから思い出してください……。

遠山の金さんは忠邦の悪政から生まれた!?

その後、晴れて本丸老中となったのですが、世の中の流れはいつまでも忠邦をいい気にさせてはおきませんでした。
この頃外国の船が日本近海にやってくることが増えていたため、海防他さまざまな面で政治の改革が求められていたのです。

そして天保の改革が実施されるわけですが、これがまあ「法令雨下」と呼ばれるほど事細かな点まで取り締まることを基本としたため、庶民からの評判は散々なものでした。

時代劇でおなじみ「遠山の金さん」こと遠山景元は、実は忠邦の腹心と言っていい立ち位置の人だったりします。とはいえ脚色されてああなったわけではなく、忠邦のやり方があまりにも庶民を苦しめるので、なんとか手の届く範囲だけでも緩和しようとしたのでした。
それを称えた町人が、彼を元にした劇を作ったのが「金さん」の始まりだそうで。へぇへぇへぇ。

自分の部下に背かれるくらいですから、当然、忠邦に対する他の大名や旗本からの評判も良いとはいえないものでした。

「命があるだけマシ」で強制隠居

そして、上知令(幕府による地上げ&領地換え)を強行しようとしたために、景元とは別の部下に裏切られて老中をクビになっています。

領地換えによって土地は整理できるかもしれませんが、大名や旗本にとっては「加増や処罰でもないのに、何でわざわざ大金をかけて引越ししないといけないんだ!」というわけです。ついでに、当時の武士はほとんどが自領内の富裕層から借金をしていたため、債権を持つ人々から見れば「お上が借金を踏み倒させようとしている!」とも見えてしまったのでした。

自分だって一回国替えしてそれなりにお金を使ったでしょうに、何でここがわからなかったんで少ねえ。まさか自国の経済にノータッチだったなんてこともないでしょうし。

老中を罷免された後は、恨みを積もりに積もらせた庶民に屋敷を襲われたり、一年後に老中へ再任されてもろくに仕事をさせてもらえなかったりなど、厳しい言い方をすれば「自業自得」な状態だったようです。

「体調を崩したのでしばらく休みます」と言いながら、その一方で裏切り者へ報復したりと、「何だかなあ」な言動は続きました。

これを見かねて、他の老中は「もうあの人追い出しましょうよ」という意見でまとまり、忠邦は強制隠居・大幅な減封・国替えという「命があるだけマシ」といった罰が下りました。
この国替えのときにも借金を踏み倒そうとしたため、かなりデカイ規模の一揆を起こされています。しかも、事を収めたのは入れ替わりに来た井上正春という人でした。跡を濁すにも程があるやろ。

薪水給与令だけは続けても良かったかも?

そんなわけでまさに「権力欲の塊」な人なのですが、忠邦の採った政策でひとつだけ、続けてもよさそうだったものがあります。「薪水(しんすい)給与令」というものです。彼のオリジナルではなく、これ以前にも出されているので、年号を取って「天保の薪水給与令」と呼ばれることもあります。

これは書いて字のごとく、「外国とは付き合わないけど、船の燃料と飲み水の補給だけはしてもいいよ!」というものでした。
これ、ペリーが「開国してよ!」と言ってきたときの条件のひとつでしたよね。

忠邦の失脚によってこの法律もわずかな期間しか施行されなかったのですが、もし幕末までこれが有効だったとしたら、「ハイハイ燃料と水はあげますから、これ以上関わってこないでくださいね^^」と時間を稼ぎ、その間に軍備を整える……なんてことができたかもしれません。
もしかしたら、永世中立化できた可能性もなくはないですね。永世中立国といえばスイスですが、これが認められたのは1815年(文化十二年)のウィーン会議でのことでしたし。

その後は技術の発展によって石油が重要になってきますので、シーレーンを押さえられたらやっぱり史実と同じような道をたどりそうですが……。また、日本とスイスでは地政学的な特性が全く違いますので、遅かれ早かれ列強の影響を受けたでしょうけども。
まあ、いつものとりとめもない「IF」ということで。

長月 七紀・記


下記はこの記事についたコメント。
http://bushoojapan.com/tomorrow/2015/06/23/52905#comments

歴男零号
2016年 4月 22日


今晩は、歴男零号です。
水野忠邦の件に関しては、
現在、故人の歴史学者青木美智男氏によると、
浜松藩での忠邦の評判は悪く、
破壊略奪の暴動が起こったそうです。
浜松領民の間から忠邦は
「改革だのと、口では綺麗事をぬかして
実際やってる事は自分の一族が得する事ばっかで
俺達民衆には猛毒を撒き散らす忠邦のロクデナシ
野郎は伝染病は性質が悪い奴だ」と言われて批判を
浴びていたそうです。 
忠邦は老中昇進の為のワイロ提供目的の為に
苛酷で強引な御用金取り立てたそうです。
「金が領民は女房と娘を女郎屋に
売って金を作れ」と言ったそうです。
浜松藩の名物行事と特産品と領民の
貴重な収入源の野菜作りを禁止し
「こんな贅沢品作る暇があったら
米を作れ作って作りまくれ
出来なかったら、死ね」と強引な年貢取立て
目的の米作りを強要したそうです。
領民達は貴重な収入源の野菜作りを禁止され
藩の名物行事も慣れない米作りと
軍事訓練を強要されるのですから、溜まったもんじゃなったでしょう。
忠邦の失脚後についた老中に就任した阿部正弘政権によって
忠邦とその側近鳥居妖臓の老中在職中の不正が裁かれ浜松藩から
山形藩に懲罰的な領地替となり、これまで強引に取り立てた御用金の
借金を返済せず踏み倒し、強引な年貢の取立て保証を蔑ろして浜松藩から
山形藩に出って行こうした事が領民に発覚し、これまで改革とは名ばかりの横暴な悪政に
よって苦しめられてきた領民の怒りが爆発し浜松藩各地で破壊略奪の大暴動が発生したのです。
さすがに水野家は暴動を鎮圧する事が出来ず、後任に浜松藩に入ってきた井上家に
仲裁を依頼しこれまで忠邦が行った強引な借金の返済と強引な年貢の保証を
肩代わりをするという条件でなんとか暴動が治まり、忠邦の一族が浜松藩から出ってたら
領民は酒樽の鏡を割って忠邦の失脚と忠邦の一族が浜松藩から追放された事を喜んだそうです。
所詮、水野忠邦という男はその程度だったのでしょう。
老中の器でもない身の程知らずバカ殿としか言いようがありませんし、
腹を切って忠邦を止めようした御家老の見方が正しかったでしょう。