kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

遠く千葉の銚子市にも災厄をもたらしていた岡山の加計学園

加計学園が問題にされるだろうと言われてから2か月経っている。下記は最初に加計学園の名前が出た当時に『週刊朝日』2017年4月7日号にジャーナリスト・今西憲之が書いた記事。

首相“お友達大学”で補助金トラブル、千葉・銚子市長選で「水産・獣医学部」新設話も (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

首相“お友達大学”で補助金トラブル、千葉・銚子市長選で「水産・獣医学部」新設話も
(更新 2017/3/28 07:00)

加計学園の加計孝太郎理事長は、安倍首相が自ら『腹心の友』と言うほどでしょう。田舎町への傲慢(ごうまん)さを感じますね」

 こう話すのは、千葉県銚子市の笠原幸子市議だ。

 加計学園とは岡山県の学校法人で、傘下に多数の学校を抱える一大グループ。加計理事長は安倍晋三首相と40年来の親友だ。本誌3月17日号が報じたとおり、安倍首相が推し進める国家戦略特区制度で、愛媛県今治市に傘下の岡山理科大獣医学部を新設。公有地36億円相当が無償譲渡された。また昭恵夫人が系列認可外保育施設の名誉園長を務めるなど「第2の森友学園問題」とも指摘される。

 そんな加計学園が今、銚子市で論争の的だ。

 4月23日の市長選に返り咲きを期して立候補を表明した野平匡邦氏は、公約として加計学園が地元で運営する千葉科学大に、国家戦略特区制度を利用して水産・獣医学部を新設することを掲げているのだ。今治市と同じ構図である。

 野平氏自治省を経て岡山県副知事を務め、02年には岡山理科大客員教授に就任。同年7月の銚子市長選で千葉科学大の地元誘致を訴えて初当選を果たし、同校は04年春に開校した。

 だが、実はこのときの“補助金トラブル”が、今も尾を引いているのだ。

 大学誘致は市が加計学園に92億円もの補助金を提供し、市有地9.8ヘクタールを無償貸与することで実現した。ところが、補助金の大部分が市の「借金」だったことなどから市民から批判が噴出。開校前の03年春に銚子市の市議会議員らが岡山県加計学園本部を訪れ、補助金減額を直談判した。前出の笠原市議がこう話す。

「当時、開校にどれくらいカネがかかるのか明確な話がなかった。いくらか建築や開発の資料があり、そこから150億円だという建設費があまりに高いので本当かと直談判に及んだ」

 結局、加計学園補助金14億6千万円を返還することで市と合意。市側はさらに約8億円の辞退を要請し、加計学園が市民に貢献できる施設を建設することに協力することになった。

 だが、「今もって加計学園の『還元』は実現していない」と加瀬庫蔵市議らは主張。銚子市役所幹部もこう説明する。

加計学園側は14年に千葉科学大が看護学部を設置した際、津波の避難に対応できる高い建物を建設。地元の人も万一の時はここに避難できるから、約束した『市民への還元』にあたると主張。辞退を要求していた8億円分で美術館などを建てるという話だったのに約束が違う、こちらは認められないと拒否しています」

 現在、市の財政は市債残高約300億円を抱え火の車。財政を悪化させた一つの要因は千葉科学大への補助金支払いのための借金で、利子を含めた返済額は84億円で毎年約4億円を返し、14年度末で約44億円もが借金として残る。市は斎場の使用料金を6千円から1万2千円に値上げ、市長など特別職の給与を減額するなどして支出削減を図っているが、一般会計で資金が足りなくなり約4億円を水道特別会計から借りて急場をしのぐ綱渡り状態。17年度には北海道夕張市に続く財政破たんに瀕することを越川信一市長も認めている。

 また、大学誘致の経済効果は69億円、財政効果79億円とされたが、3年前に市が試算したところ経済効果は約21億円、財政効果は約14億円にとどまることが判明した。

 そんな状況下で市長選では水産・獣医学部の新設話まで持ち上がり、地元は疑心暗鬼になっているという。

 加計学園に取材すると、補助金をめぐる対応は05年に市と結んだ「覚書」に基づいているとして、次のように主張する。

「覚書に基づいて『銚子市の教育・文化・産業等の向上に貢献できうる施設・設備等』として、建設予定の看護学部棟に潮見町及び近隣地区の大規模災害時における緊急避難場所と避難通路を設けることを伝えました。(銚子市から)看護学部の設置を文書で要望され、(補助金などの援助を前提に誘致に応じたのに)校舎建設などの経費援助を要請しても市から回答がなく、本学の自費で緊急避難場所などを設けた看護学部棟を建設したところです」

 財政再建派の現職も出馬する市長選の結果が注目される。(ジャーナリスト・今西憲之)

週刊朝日  2017年4月7日号より抜粋

(『AERA dot.』より)


銚子には一度だけ行ったことがある*1。2014年3月に、青春18きっぷを使って行った。この時には、内田百間(「間」は正しくは門構えに月)の『第三阿房列車』に収録されている「房総鼻眼鏡―房総阿房列車」を真似て、千葉-成東-銚子- 成田-千葉と千葉-木更津-安房鴨川-大原-千葉のコースで行った(百間は3泊したが、私は別々の日にそれぞれ日帰りで行った)。この時には、天気のせいもあって房総半島よりも好天に恵まれた銚子が印象に残った。「首都圏」というより「最果ての地」という言葉がぴったりくるところで、銚子では駅から海岸まで歩き、帰りには銚子電鉄の信じられないほどボロボロの駅まで歩いて、そこから銚子電鉄で銚子まで戻った。

その銚子で、内田百間の出身地である岡山の悪徳学校法人がこんな悪事をやらかしていたとは知らなかった。加計学園は岡山からはるか離れた関東の地方都市の財政を食い物にしていたのだ。

ところで、上記週刊朝日の記事で注目したのは、なんといっても元銚子市長・野平匡邦(のひら・まさくに)である。何者だこいつ、と思うと同時に、そういや銚子市長選はもう終わってるんだよな、結果はどうだったんだろう。まさか当選してないだろうな、と思って調べてみたが、幸いなことに野平は落選していた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201704/CK2017042402000166.html

銚子市長選 越川さんが再選
2017年4月24日

 任期満了に伴う銚子市長選は二十三日に投開票され、無所属現職の越川信一さん(55)が、いずれも無所属で、通算三期目を目指した元市長の野平匡邦(まさくに)さん(69)と、新人で元市議の椎名亮太さん(32)を破り、再選を決めた。当日有権者数は五万四千三百八十八人。投票率は52・57%(前回47・76%)だった。

 越川さんは市議を経て、二〇一三年の市長選で初当選。事業仕分けやごみ袋の値上げ、市職員の給与削減などを実施し、一五年度、市の一般会計で五年ぶりに黒字を達成した。

 今回の選挙戦では、一期目で進めてきた財政再建などの実績を強調。一方で、それらの取り組みは道半ばだとして、洋上風力発電の実現やスポーツ合宿事業の推進による新たな財源づくりの他、子育て支援や高齢者福祉の充実などを掲げ、支持を固めた。

 野平さんは国家戦略特区を利用した洋上風力発電誘致などを訴え、椎名さんは「市民ファースト目線での行財政改革」を公約に掲げたが、及ばなかった。

 二十三日は椎名さんの市議辞職に伴う市議補選(被選挙数一)も投開票された。 (渡辺陽太郎)

◆開票結果

当 16,932 越川信一 無 現<2>

  8,478 野平匡邦 無 元 

  2,995 椎名亮太 無 新 

  全票終了

東京新聞より)


負けた野平だが、ネット検索をかけたら予想通り悪評ふんぷんだった。地元の人が書いたと思われるブログ記事に描写された野平の正体には絶句するとともに、こいつは昔から安倍晋三とつながっていたのではないかと勝手に想像してしまった。なぜなら、野平は「水からの伝言」の信者であることで悪名高い安倍昭恵とも張り合えそうなトンデモ人士であることがわかったからだ。

下記は、かつて一度野平が銚子市長に返り咲いた2009年の銚子市長選の直前に書かれたブログ記事。

光をめざして : 野平匡邦氏の銚子市長としての資質を疑う!(公私混同ぶりとマハリシ騒動) - livedoor Blog(ブログ)(2009年4月23日)

野平元市長の場合に、市長という仕事にとりくむ姿勢の問題に関して、在任当時に厳しく指摘され続けた悪しき性癖がある。
それは公私混同ぶりが日常の職務の遂行のなかで際立っていたことである。

野平元市長の場合、日常の職務においてまず目を引くことは異常な主張ラッシュであった。
「行革」と称して市職員の主張旅費を削減しながら、自らは一年間の半分も銚子市を留守にして首都圏方面を中心に全国各地を飛び回っていたのである。

たしかに、補助金などのお金を獲得するために全国を走り回っていたのであり、銚子市のために東奔西走していたのだという言い訳が成り立たないわけでもない。
だが、この出張の中には政治家のパーティや近隣首長の親族の葬式などが含まれており、必ずしも公務のために東奔西走していたというわけでもないらしい。

だが、なによりも一地方都市である「銚子市」の市長がこんなに出張が必要なのかという疑問符がつくことは否定できない。

さて、野平氏は市長在任当時にみずからホームページを開設し、そのなかで2004年(平成16年)における氏の“舞台芸術鑑賞全記録”なるものを掲載していた。
それによると、同年の1月から12月までの一年間に65回の芸術鑑賞をしていたことが記録されている。

これだけを見るとさすが、東大を出て司法試験にも合格した元自治官僚のエリートだけあって、趣味のほうも極めて“高尚”だという印象だけが残るが、この野平元市長の鑑賞記録と市役所の秘書課における市長の出張伝票をつけ合せてみると、驚くべき事実が浮かび上がってくるのである。

ホームページに記載された65回の芸術鑑賞のうち、35回分が出張伝票の日付とぴたり重なっているのだ。

市長の出張は運転手つきの公用車によるものであり、公用の前後かは別にして、おそらくは公用車をどこかに待機させながらの野平元市長の芸術鑑賞だったのだろう。(さぞや、いずれの出張も芸術鑑賞の“感動”に浸っての有意義なものだったの違いない)

はなはだしきは、同年の1月18日には、ニューイヤーコンサート鑑賞のためだけに出張の伝票を切っていたことも明らかになっているのである。

また、2004年(平成16年)の2月にはオランダへと十日間の海外出張をおこなっているが、ここでも例の野平元市長の“舞台芸術鑑賞全記録”によれば、現地で七つの舞台芸術を“鑑賞”していたことが判明する。

ダッチ・フィルハーモニー管弦楽団コンサート、歌劇「ばらの騎士」、ワルトラウト・マイヤー・メゾソプラノリサイタルなど、綺羅星のごときアーチストの舞台芸術鑑賞のオンパレードぶりである。

また、このオランダ訪問では後半に例のマハリシ本部」を訪れている。
聞くところによると、「マハリシ本部」からヘリコプターでの出迎えがあり、コテージに招待され豪華な食事の接待を受けたという。おまけに民間人(市長の有力後援者だったらしいが)が一緒に同行していたらしい。

この席で、国民宿舎廃止後の再利用という名目で野平元市長自身がマハリシ銚子市への進出を要請し、帰国後に「外資系大学の誘致に成功」とテレビの全国放送でPRをおこなった。

マハリシはたいへん謎めいた団体であったが、その後にようやく市民の手でその実態が突き止められたことは幸いであった。

そして、市民の手によって明らかになったマハリシの実態は驚くべきものであり、マハリシの実態をもろもろの情報から総合していくと、この団体の目的は「空中浮遊」により地上の楽園をつくりだすことであり、「空中浮遊」を習得する手段としての「超越瞑想」の普及を推進している団体であることが明らかにされたのである。

また、広く人を集めるために、入り口ではエステや健康法などを表看板として利用していることも判明したのであった。
それから時をおかずに、マハリシはまぎれもなく世界的規模の新興宗教団体であり、ことによるとカルト教団の一種かもしれないという実態があっというまに市民の間に知れ渡っていく。

そして、市民はすでに霊感商法統一協会サリン事件のオウム真理教などの事例によりカルト教団の危険性を十分に認識していたのだ。

市民の間に当然のごとく「マハリシグループ」の銚子市進出に反対する世論が高まり、紆余曲折の末にグループ自体が進出を辞退するという結末で“マハリシ騒動”は終結したが、外資系の大学」と言い張り、マハリシグループの実態を市民に隠して銚子市に呼び込もうとした野平元市長の罪は重い。

当時は国民宿舎廃止後の再利用につき、市民から再利用をめぐってアイデアの公募が行われていたが、市民からのアイデアをまったく無視しながら「マハリシグループ」の招待に応じてオランダの本部を訪問し、市長自ら銚子市への進出を要請したという野平氏の独断専行ぶりにも目に余るものがあった。

さて、話をオランダ訪問にもどすと、この訪問には問題点が二つあった。
第一は、まぎれもなく市長としての海外出張であり、税金から高額の旅費が支給されるにもかかわらず、野平元市長は公私混同ぶりをいかんなく発揮して“高尚”な舞台芸術三昧の日々を過ごしていたことだ。

そして、第二は舞台芸術三昧のついでに世界的“カルト教団”の可能性の高い「マハリシグループ」にたいし、その実態を銚子市民には秘匿しながら、野平氏自らマハリシ本部に出向いて積極的な誘致活動をおこなっていたことである。

公私混同ぶりとカルトめいた巨大新興宗教団体とのコンタクトというこれらの事実は、野平氏の市長としての資質が根本的に問われかねない出来事であり、それに決定的な疑問符をつけざるをえない出来事であったと言えよう。


同じブログには、野平と加計学園との癒着を告発した記事もある。やはり2009年4月の記事より。

光をめざして : 野平匡邦氏は次期市長にふさわしいか。(副題:岡野俊昭氏と野平匡邦氏には「NO」の審判をくだせ) - livedoor Blog(ブログ)(2009年4月17日)

野平匡邦氏の市長時代における政治手法を振り返ると、市民世論や議会を無視した独善的な言動や行動ぶりが突出していることが大きな特徴である。

前々回の市長選挙に際して、大学の誘致を最大の公約として掲げた野平氏は、市長当選の翌日に加計学園理事長とともに記者会見をおこなった後、次から次へと市長の独断専行で大学側との「誘致交渉」を推し進め、大学側への92億円の寄付金も勝手にきめてしまった。

この間の野平市長の大学誘致にたいするスタンスは、野平氏加計学園の経営する岡山理大の講義をやらない“客員教授”という位置にあったことも加わって、全く加計学園の代弁者であり、学園側の言いなりの姿勢に終始したといってもよい。

しかも、議会の存在を無視して市長になる前から大学誘致を表明し、市長就任後も議会に何の説明もなく独断専行で事にあたった。

やっと市長就任直後の9月議会で開会日に説明らしきものをおこなったが、その説明の実態たるや“私は市長だから何でもできる。加計学園誘致はすでに銚子市として既定の方針であり、黙って協力すべきだ”という態度を強く押し出したものであったという。

また、議会側が市民への責任からも慎重に事前調査をおこなうべきとの判断で、9月議会に委員12名からなる「大学問題等調査特別委員会」を設置し、調査活動を始めようとした矢先に、野平市長は正式な文書を持参して加計学園に出向いて大学の銚子市進出の要請をおこなった。

市長を先頭とする執行部だけではなく、市民に選ばれた議会が進出を求めたときに初めて銚子市が要請したこととなろうが、議会が誘致の是非を判断する上で必要な調査を始めようとした矢先に、市長が独断で行動して大学側に正式に銚子進出を要請したのである。

この加計学園の銚子進出をめぐる野平市長の初期の行動は独断専行というほかはなく、その後の野平市政4年間における議会の議決を覆す“専決処分”の乱発など、議会の審議権に対しての挑戦を繰り返し、議会制民主主義をないがしろにした野平市長の政治姿勢が露骨に表れた最初の出来事であった。

また、大学誘致は市がマリーナの後背地15ha(市有地)を提供し、92億円(利子合計で102億円)もの巨額の寄付をおこなうものであり、いわば銚子市の「命運」をかける大事業であったにもかかわらず、野平市長はきちっとした政策の事前調査もおこなわず問答無用とばかりに、住民の疑問や批判にもほとんど耳を貸さずに「はじめに大学誘致ありき」の姿勢で暴走したことも忘れてはならない。

巨額な市民負担が予想され、大学誘致にともなう“経済効果”に関しての説明もあやふやな野平市長の政治姿勢に不信を募らせた多数の市民有志が、「大学問題を考える会」を立ち上げ、大学誘致に関しての住民投票を求める直接請求運動を繰り広げたことがある。

この住民投票を求める運動は「議会の承認を受けており、住民投票の必要性は認められない」とした野平市長の頑なな姿勢を崩すことはできなかったが、当時、市民の間に野平市長の大学誘致の手法に疑問や批判が広がり、市民多数の支持を受けているとはとても言い難い状況が存在したことは事実である。

とすれば、この問題に対しての説明責任をきっちり果たすことで市民の間にあるいろいろな疑問を解消し、あらためて市民の合意を図ったうえで大学誘致という事業に取りかかるのが筋であったし、それが民主的なやり方であったと言えよう。

にもかかわらず、市民の間に存在する疑問や批判を無視し、「時間がない」とばかりに大学側の「急ぎ」の都合にあわせて大学誘致を強行した野平市長の手法は、まさしく独断専行の政治手法であり、市民の声を無視した「市民不在」の市政にほかならなかった。

また、2004年の4月に大学の開学をめざしていた野平市長と加計学園の思惑に大きな壁が立ちはだかったことがある。

それは、建設予定地域であったマリーナの後背地が環境アセスの必要な国定公園地域であり、1年かけての環境アセス実施が避けられないことが2003年の半ばになってから判明したことである。

これでは、翌年の開学に間に合わないと知った野平市長は急きょ、隣接するアセス不要の水産加工団地内の工業用地を大学側に紹介し、そこに仮校舎を建設することで開学を間に合わせようとしたのであった。

水産加工団地の一角の土地に大学の校舎ができることに操業上の「死活問題」を感じた水産加工業の経営者たちは反対を表明したが、野平市長はこれにも耳を貸さずに仮校舎建設と2004年4月開学を強行し、経営者たちとのトラブルと軋轢は長期間にわたって尾を引き続けたのである。

これらは一部の事例にすぎないが、野平市政のもとでの市民の声や疑問に背を向けた独断専行の政治手法の横行を物語るものだ。

だが、注目すべきはこれらの中に岡野前市長の政治手法との共通点が見出せることだ。

「ない袖はふれない」、「夕張になる」という虚構の理由をもちだし、「市立病院は守り発展させる」という自らの公約を踏みにじり、市民には事前に一言も相談せずに市立病院の一方的な休止を決定したこと。

市長の突然の病院休止決定後に、「病院の存続」を求める市民の署名が1ヶ月で5万筆も市長に提出されたにもかかわらず、これを無視して病院の休止を強行したこと。

これらの出来事に見られる岡野市長の政治姿勢は独断的で独善そのものである。
そして、病院休止をめぐる政治責任を市民に問われた岡野前市長はリコールによって市長職を解職されてしまったが、岡野前市長はこの市民の審判に挑戦するかのように出直し市長選挙に再出馬するという。

なぜ、銚子市では市民の声に耳を貸さない独善的な地方政治家が次々と排出しつづけるのであろうか。

今回の市長選において銚子市民は断固として岡野氏と野平氏に再度「ノー」の審判を下すべきだ。
そして、今度こそ市民の声に耳を傾ける民主的で市民本位の首長が銚子市のトップの座につかなくてはならない。

なんてことだ。いま今治で問題になっていることとそっくりの構図ではないか。

しかも絶望的なことに、野平と何度も市長選を争った岡野俊昭という元市長も、野平と張り合えるくらいとんでもない市長だったらしい。2006年の市長選ではこの2人が争い、接戦で岡野が勝ったが、在任中にリコールされたために2009年に再度市長選が行われ、野平が再出馬した岡野に大差をつけて市長に返り咲いたようだ。その野平も2013年と2017年の市長選に連敗した。似たような例で思い出されるのは安倍晋三の地元・山口県下関市長選であって、ここでは安倍系の元市長・江島潔(現参院議員)と林系の前市長・中尾友昭はともにとんでもない市長だった。

2006年 銚子市長選
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Poplar/5755/senkyo-2006-07.htm

 当 13235 岡野俊昭(無新、60歳、初当選)
   12756 野平匡邦(無現、58歳)
    9041 石上允康(無新、61歳)

2009年 銚子市長選
https://www.chibanippo.co.jp/senkyo/2009/choushic/1699

当  野平匡邦  61  無元  15289
   岡野俊昭  63  無新  7969
   茂木 薫  58  無新  4256
   石上允康  63  無新  3151
   松井 稔  45  無新  2709
   高瀬博史  59  無新  1314


2013年 銚子市長選
https://www.chibanippo.co.jp/senkyo/2013/choushic/133519

当 13717  越川信一  51  無新(1)
  13007  野平匡邦  65  無現


上記の選挙結果を見ると、野平が落選した2006年と2013年の銚子市長選はいずれも大接戦だったことがわかる。野平は2006年には479票差、2013年には710票差で落選した。しかし2017年には大差で敗れている。

さて、野平は銚子の人間か、それとも岡山の人間かといえば、銚子の人間ではあった。

野平匡邦 - Wikipedia より

野平匡邦


野平 匡邦(のひら まさくに、1947年7月25日 - )は、日本の政治家、官僚。弁護士。2期にわたって千葉県銚子市長を務めた。空手道東大拳法会7段、全日本空手道連盟3段。趣味は西洋の伝統芸術鑑賞、合唱など。父は外科医で俳人の野平藤雄。銚子市出身。


略歴

 1947年(昭和22年) - 千葉県香取郡下総町(現・成田市)に生まれ、翌年父の外科医院開業に伴い銚子市に転居。小中高と銚子市内の学校に通う。
 1967年(昭和42年) - 慶応義塾大学経済学部に入学するも中途退学し、翌年東京大学に再入学。
 1973年(昭和48年) - 国家公務員上級試験(法律職甲)に合格して自治省に入省。
 茨城・岩手・広島などへ出向。
 1989年(平成元年)4月 - 仙台市財政局長
 1992年(平成4年)4月 - 公営企業金融公庫 経理部・資金課長(資金調達担当)
 1994年(平成6年)7月 - 建設省 建設経済局建設振興課長(建設専門業〈ゼネコンに対するサブコン〉担当)
 1996年(平成8年)7月 - 自治省 財政局指導課長(財政再建担当)
 1997年(平成9年)4月 - 岡山県副知事(総務部・地域振興部・農林部・商工労働部・教育委員会担当)を務めると同時に岡山大学経済学部学外教授(地方財政経営論)。
 1999年(平成11年)4月 - 自治省 大臣官房・会計課長
 2000年(平成12年)4月 - 自治省 消防庁審議官
 2001年(平成13年)1月 - 総務省 消防庁審議官
 2001年(平成13年)4月 - 独立行政法人消防研究所理事
 2002年(平成14年)5月 - 退官、学校法人加計学園 岡山理科大学客員教授
 2002年(平成14年)8月〜2006年(平成18年)8月 - 銚子市長(1期)
 2009年(平成21年)1月 - 司法修習、弁護士資格付与のための指定研修を経て、第一東京弁護士会登録
 2009年(平成21年)5月〜2013年(平成25年)5月 - 銚子市長(2期)。3選を狙って2013年・2017年の2度にわたって市長選に臨むが落選した。

なるほど。野平と岡山との縁は石井正弘が大接戦の末に江田五月を破った1996年の岡山県知事選をきっかけに生まれたものらしい。おそらく岡山県副知事時代に加計学園との腐れ縁が生まれたものだろう。銚子市民にとってはとんだ災難だったというほかない。

*1:銚子という地名を認識したのは高校野球銚子商業によってだった。私は子ども時代の1973年8月16日に、この年に亡くなったサトウハチローが「雨に散った江川投手」という詩を作ったことで知られる銚子商業作新学院の試合を阪神甲子園球場のスタンドで観戦していた。