11月最初に注目された大阪市廃止の住民投票とアメリカ大統領選は、ともにこれまで大手を振ってのさばっていた大阪維新の会とトランプが敗れる結果となったが("ByeDON" という、バイデンと「さらばドナルド(トランプ)」を掛け合わせた造語には爆笑してしまった)、投票傾向は日米で対照的だった。
日本では、大阪市北区を中心とした都市部住民が、維新が設定した大阪市廃止を大いに支持し、市南部がこれを阻んだのに対し、アメリカでは都市部がバイデンを支持し、権威主義的な傾向が強い中部や南部がトランプを支持した。結局、4年前にトランプにかけた期待をトランプに裏切られたラストベルトの人たちがトランプから離反したことが、今回の結果の原因となった。
さっきまで見ていたテレビ(サンデーモーニング)で、アメリカの民主主義がどうこうなどと言っていたが、青木理も言っていた通り、アメリカどころでなく深刻なのは日本だろう。
トランプは確かに権威主義者だし、日本の自民党も同様に権威主義的だが、それでは大阪維新の会はどうなのか。
維新は維新の会はもともと、12年前の橋下徹人気に支えられていたが、橋下は「改革者」を偽装した権威主義者だった。その惰性力が橋下が党を去った今でも続いている*1のが、現在に至るまで大阪府市を牛耳っていられる理由だろう。
維新はいうまでもなく新自由主義勢力だが、権威主義に絡め取られているのは何もネオリベたちだけではない。思い出すべきは、2007年の参院選で、当時の民主党が安倍晋三率いる自民党に「KO勝ち」した頃から異常増殖した「小沢信者」(オザシン)たちだ。
小沢一郎に対する彼らの態度は「権威主義」そのものだった。その後、小沢が民主党内でいつもの権力闘争を展開し、少数派として離党して嘉田由紀子を担いだ「日本未来の党」で 臨んだ2012年の衆院選に惨敗した時、オザシンが撒き散らしたのが、現在アメリカの「トランプ信者」やそれに乗っかった日本のネトウヨが垂れ流している「不正選挙」論だった。トランプの名前を書いた投票用紙がトラックに乗せられて山の中に廃棄されたとかいうデマがあったようだが、私は8年前のオザシンが似たような話を垂れ流していたことを思い出していた。
当時のオザシンはもちろん、その流れを汲む「山本太郎信者」(ヤマシン)も、また彼らと対立する立憲民主党支持者の中にも、支持する政党や党代表の批判を一切受け付けない権威主義者たちがわんさかいる。共産党支持者の中にも、共産党が民主集中制をとるのを良いことに、党に対する批判を一切受け付けない「信者」たちが少なくない。日本では「リベラル・左派・左翼」もまた、早くから権威主義に絡め取られていたとみるほかない。
まだアメリカには「権威主義対民主主義」の構図を看て取ることができるが、日本ではそれさえもできない。大阪市廃止の住民投票など、「権威主義対権威主義」の傾向がかなり強かった。
もちろん、公明党支持層の半分が党執行部の掌返しに従わなかったことなど、一部には光を見出すことはできるが、有権者全体から見ればほんの一部に過ぎない。大阪市廃止に反対票を投じた人たちの中にも権威主義者はたくさんいる。
「民主主義の危機」どころか、日本は最初から民主主義国であったことなど一度もないのではないかと思う今日この頃だ。
*1:もちろん橋下自身も維新の後見人的な言動を発し続けてはいるが。