kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

市民的勇気ということ

この間から頭に引っかかって離れなかった言葉がある。
「市民的勇気」である。
音楽評論家の吉田秀和が、朝日新聞のスター記者だった本多勝一が1990年頃に同紙に連載した旧東独に関するルポルタージュ(のちに「ドイツ民主共和国」として単行本化)を「音楽展望」で称賛した時、この通りの表現だったかどうかは忘れたが、これを意味する言葉を用いた。そのことに、この間「きまぐれな日々」で軽く触れて以来気になっていたのだ。

昨日ネット検索をしていたら、ある記事を見つけた。
ブログ「憲文録−別冊」の2006年3月21日付の「教育と市民の勇気」である。
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大変印象的な記事だった。詳しくはリンク先を参照いただくとして、そこでも触れられている、ジークムント・バウマンによる「市民的なるもの」を特徴づけした記述を、孫引きになるが以下に紹介する。

「市民的であるということの要点は、見知らぬ者と関係をもつにあたって、変わった点をかれらの欠陥と考えないこと、変わった点をなくすよう、あるいは、見知らぬ者を見知らぬ者たらしめている特徴を強制するよう、圧力をかけないことにある」
ジークムント・バウマン 「リキッド・モダニティ 液状化する社会」より)

さらに、20世紀前半に、アメリカ連邦最高裁判所のブランダイス裁判官が、ホイットニー事件の裁判の時に述べた少数意見も、同じリンク先の記事から孫引きで紹介する。

「私たちの独立を勝ち取った人びとはこう信じていた。すなわち、国の最終的な目標は、人びとが自由に自分たちの能力を発展できるようにすることにある。そして、政府においては、討議の力は恣意を退けるはずである。彼らにとって、自由は、目的としてだけでなく、手段としても価値あるものだった。彼らの考えでは、自由は幸福の秘訣であり、勇気は自由の秘訣である。思うままに考える自由、考えるままに話す自由は、政治的な真理を発見し広めていくのに不可欠な手段である。自由な言論と集会がなければ、議論は不毛である。このような自由が保障されてこそ、議論は、有害な考えの広まりに対する日常十分な程度の防波堤となりうるのである。自由に対する最大の害悪は、怠惰な人間である。公共の議論は、政治的な責務である。そして、このことは、アメリカの統治の基本原理たるべきである。」

「彼らは、あらゆる人間の制度に潜んでいる危険を承知していた。しかし、彼らの理解では、秩序は、その侵害に対する処罰の脅威だけでは保つことはできない。思考と希望と想像力を弱める危険がある。恐怖は抑圧を生む。抑圧は憎しみを生む。憎しみは安定した政府を損なう。安全への道は、抱いた不満と提案された救済について自由に議論する機会を保障することにある。害ある助言に対する適切な救済は、良い助言である。公共の議論を通じて発揮される理性の力を信じ、彼らは、法のよって強いられた沈黙−−最悪のかたちの力の議論−−を避ける。支配的なマジョリティによる一時的な専制〔の危険〕を認識し、彼らは、憲法を修正して、自由な言論と集会を保障しようとしたのである。」
(Whitney v.California,274 U.S. 357(1927))

これを受けての、ブログの管理人さんのコメントも紹介する。

この私の大好きな一節に引きつけて、2つの点を書いておきたいと思います。第1は、前回の投稿の繰り返しになりますが、日本国籍を持たないというだけで外国人をおしなべて「リスク」要因として管理しようとする発想は、上で引用したブランダイスの精神からもっとも遠いところにあるということです。自分たちとは違うという理由から、何をしでかすかわからない存在として、そこに「抽象的な危険」を見いだす態度は、けっして「市民的」ではありません。そのような抽象的な危険に怯えて、見知らぬ他者を排除しあるいは囲い込むのではなく、ぎりぎりまで他者と向き合いねばり強く議論する、それが市民にとってふさわしい態度だからです。ぎりぎりまで我慢すること。具体的な危険が差し迫った状況にいたるまで、他者に対して討議のチャンネルを開いておくこと。このような考え方が、「明白かつ現在の危険の法理」の核心にあります。

第2は、市民的勇気を涵養し、市民的能力を鍛錬するには、子どもたちに対する政治教育が重要だということです。冒頭掲げた『教育』の著者広田先生は、『「愛国心」のゆくえ―教育基本法改正という問題』(世織書房・2005年)においてその点を強調しています。教育基本法8条1項は次のように規定しています。「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない」。これを受けて、学校教育法は、高校の教育の目標つとして次の点を掲げています。「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること」(42条)。とりわけ、バウマンがいう市民性の涵養こそが、大切です。

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大変素晴らしい記事だ。
教育基本法の「改正」は、決して足早に通り過ぎて良い問題などではなかった。
このブログの管理人さんは、北海道の大学の先生だが、管理人さんの家では「北海道新聞」と「朝日新聞」の二紙をとっていたが、教育基本法改正に関する、朝日のあまりに腰が引けた姿勢に頭にきて、ついに朝日の購読を止めてしまったそうだ。
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朝日新聞は、ジャーナリズムの誇りも勇気も失った三流紙になり下がったというしかないだろう。
そもそも、「ジャーナリズム宣言」などというCMを流すこと自体、朝日新聞がジャーナリズム魂を失った証拠だと、私は思っている。
美しい国へ」を掲げる総理大臣が、日本を、戦争のできる「醜い国」にしようとしているように。