kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

平沼騏一郎に関するメモ

平沼騏一郎に関するメモ。まず、『きまぐれな日々』にいただいたTBより。
岩下俊三のブログ : 平沼騏一郎から続く検察の体質

この平沼騏一郎は戦前の総理大臣になった人物であるが、もともとは政党政治を潰してしまった検察のドンであった。大逆事件幸徳秋水を殺し、政友会という政党に帝人事件というあらぬ疑いを掛けなくそうと画策した。これは検察の杜撰な捜査の典型であったが、検察が政治権力を左右する前例をつくったのは、間違いない。財閥の跋扈と政党の暴走を阻止するという彼の目的は、結果政党政治を破滅させ、軍事独裁への道を開いたのである。

戦後はA級戦犯となったが、彼のごりごりの保守、国粋主義は一貫していたとおもわれる。検察が正義の味方のようだったのは、実は田中角栄とその系譜(竹下、金丸、小沢?)への追求だけで、天皇の官吏=検察という国家権力の横暴は、戦前戦後を問わず、ずっとつづいている。その基礎を作ったのが平沼騏一郎である。京都大学中西輝政とは正反対の思想で相容れないが、平沼および検察権力には疑念をもっており、ここんところは、残念ながら正しい。以前彼の大学での講義のあと、空いているがらんとした教室で、暗くなるまで話したことがあるが、中西は自らを「志士」と思っているだけで、決して右翼ではないし、なかなか科学的で冷静である。

大逆事件における平沼騏一郎の犯罪については下記資料を見つけた。
http://www.h7.dion.ne.jp/~doyoubi/

 大逆事件では幸徳秋水ら12人が処刑されたが、実際に法律違反のあったのは5人で、幸徳は冤罪だった。彼が処刑されたのは、社会主義者の抹殺を図った桂首相と平沼騏一郎検事総長が傍聴禁止,一審制の謀略裁判を強行して、幸徳を謀殺したのである。このことは外国では直ちに露見して、多くの抗議が政府に寄せられた。   
 日本の良心と言われた徳富蘆花も逸早く真相を知った。それを聞いた一高の自治寮委員長河上丈太郎は蘆花に講演を依頼した。蘆花は一高の講堂を埋め尽くした生徒たちを前にして、多磨霊園にある井伊直弼の墓と吉田松陰の墓について、言った。松蔭の墓には慰霊の花が絶えたことがない、しかし直弼の墓を訪れる者は稀である。将来,幸徳は無実が晴れて国民の尊崇を集め、逆に事件をフレームアップして幸徳らを処刑した桂や平沼は、陰謀が露見して国民から糾弾される事になろう、と説いた。蘆花が講演を終わると、満場の生徒たちが涙を拭いながら、会場も割れんばかりの拍手を送った。しかし、この事は直ちに当局の耳に入り、一高の校長だった新渡戸稲造は、小松原文相から譴責処分を受けた。しかし新渡戸は河上を賞賛し、激励したという。

どう控えめな言い方をしても、平沼騏一郎が極悪の殺人犯だったことは、否定できない歴史的事実だ。それにしても、「外国では直ちに露見」というくだりが、日本人というか日本のジャーナリズムが、1世紀前にも醜態を晒していたことをうかがわせて情けない。

『きまぐれな日々』からリンクを張った『反戦塾』も、平沼騏一郎に関するエントリを上げた。
観念右翼: 反戦塾

「観念右翼」という言葉は、右派無所属代議士・平沼赳夫の義父で、東京裁判により終身禁固判決(講和前に病死)を受けた長老政治家・平沼騏一郎につけられた名である。彼は、昭和のはじめから政変や事件などのたびに、枢密院や司法畑での権力をバックとして歴史に顔を出した政治家である。 

 なぜ戦争が起きたか、ということは当塾にとって切り離せないテーマである。ことに昭和に入ってからは、軍部・政治・右翼の3勢力が微妙にからみ合いながらその底流をなしてきた。右翼といってもいろいろあり、一人一殺の井上日召のような在野の「行動右翼」に対して、政治に影響力を持つ「観念右翼」ということになったのだろう。そういえば、戦後「観念左翼」という言葉もあった。

 平沼騏一郎もバイプレーヤーとしてではなく、系統的に調べたいと思ってはいたが、どうにもつかみにくいのだ。思想の源流は、戊辰戦争以前の攘夷思想を出るようなものではなさそうだし、彼の思い入れとは逆に、元老・西園寺公望天皇からは毛嫌いされ、なかなか首相になれなかったらしい。

 日独伊三国同盟天皇の意志に反し、陸軍と駐独・駐伊大使が先走りしたことから始まった。その時の首相であった平沼は重大な責任を負っていたわけだが、彼自身の態度がどっちを向いているのかもうひとつはっきりしない。

 さらに、太平洋戦争末期には、近衛文麿と組んで東条首相引きおろしに一役買ったり、支持基盤であった陸軍皇道派を裏切って終戦に導いたりするなど、「右翼だからこう」といった単純な発想とは結びつかないのだ。

私が調べた限りでは、平沼騏一郎という男は、思想的には結構単細胞の右翼だった。だからドイツがソ連独ソ不可侵条約を結んでしまったことに平沼の頭は混乱し、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と言って内閣総辞職してしまった。つまり、後世の安倍晋三福田康夫同様、自ら政権を投げ出したのである。平沼は、マキャベリスト的な駆け引きはできず、自らが信奉する思想信条に忠実な男だったようだ。

そんなDQN平沼が、なぜ大逆事件だとか治安維持法の制定だとか帝人事件だとか、陰謀の才能にだけは長けていたのか、実に不思議なのだが、人間とは一筋縄ではいかないものなのだろう。

平沼騏一郎の養子・平沼赳夫はというと、前述の『反戦塾』の下記指摘が的を射ていると思う。

 ひとつ言えることは、平沼赳夫事業仕分け人を務めた民主党蓮舫参院議員について、「元々日本人じゃない」と発言し、次世代スーパーコンピューター開発費の仕分けで「世界一になる理由があるのか。2位では駄目なのか」と言ったことを問題視するようでは、次元の低い国粋主義と偏見・差別意識を露呈したに過ぎず、「観念右翼」どころかネット右翼」の域さえ出ないということを発見できたことである。

最後に余計なことを書くと、現在私が訝っていることは2つあって、1つは共産党や同党の支持者たちの検察批判が弱い、というよりほとんどないことだ。ま、共産党支持者の多くは党の指導部に忠実で、党中央の言うことには逆らわない傾向が強いので、問題は主に共産党の指導部にある。彼らの先達は治安維持法の最大の犠牲者だと思うのだが。

もう一つは、一部の民主党シンパが平沼赳夫(というより平沼の子分・城内実)に親和的なことだ。平沼赳夫が戦前の極右検察官僚・平沼騏一郎の養子(騏一郎の兄・淑郎の曾孫)であり、現在政権政党である民主党と検察が全面戦争を展開していることを考えると、実に奇妙である。もちろん城内実も警察官僚(城内康光)の実の子である。

こうやって憎まれ口を叩いて、共産党支持者と民主党シンパ(というか小沢信者)の両方を敵に回す私なのだった(笑)。