kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

戦前には極右・平沼騏一郎が牛耳っていた検察

平沼赳夫のトンデモレイシズム発言が波紋を広げているようだ。新党構想をぶち上げたパーティーであんな発言をするようでは、平沼新党の発足自体が危ぶまれるのではないか。

ところで、今回の石川議員逮捕の件について、帝人事件を引き合いに出す論陣を、私を含めて何人かのブロガーが張っているが、その際に、平沼赳夫の養父・平沼騏一郎が戦前に犯した悪事が必ず言及される。

この件を調べていて行き当たったのが、西松事件が話題を呼んでいた昨年4月に、上久保誠人早稲田大学グローバルCOEプログラム客員助教が、戦前から戦後にかけての検察vs政党の抗争史をまとめた下記記事だ。
http://diamond.jp/series/kamikubo/10021/

平沼騏一郎による政党政治潰し

「検察VS政党政治」は、平沼赳夫衆院議員の祖父で、検察官僚であった平沼騏一郎の台頭から始まったと言われる。ちょうど100年前の1909年、製糖を官営にしようとして大日本製糖の重役が手分けして金を配った「日糖疑獄」という事件が起こった。代議士に次々と逮捕者が出たために、当時の桂太郎首相は検察に対して捜査の停止を要請した。これは、「政治による司法への介入」であったが、桂首相と交渉した当時民刑局長だった平沼は、これを逆手にとれば「司法が政治に介入できる」ことに気付いた。そして汚職事件に関連している政治家を罪に問うかどうかを交渉材料として、政治に対して影響力を行使しようとする「政治的検察」が誕生した。

平沼騏一郎というのは、なんとも悪知恵の働くやつだったのだ。

 1914年、「ジーメンス事件」が起こる。ジーメンス社東京支店のタイピスト、カール・リヒテルがある秘密契約書および仕様書を盗み、ヘルマン支店長が日本海軍高官にリベートを渡しているとして金をゆすろうとしたことがドイツで発覚した。検事総長に昇格していた平沼はこれに目を付けた。平沼の指揮によって検察が政治へ介入した。そして、マスコミと帝国議会山本権兵衛首相を泥棒呼ばわりし世論を煽った。当時、山本内閣は大行財政改革を打ち出していたが、議会の紛糾によってそれは頓挫し、遂に内閣総辞職した。しかし、事件が沈静化した後、山本首相が全くの無罪であったことがわかった。

「平沼は」という文字列を見ているだけで、何やらムカムカしてくるのだが、これはあくまで騏一郎の話だ。

 1925年、普通選挙法を議会で審議中の加藤高明内閣に平沼は接近した。そして普通選挙法の成立を検察が妨害しないことを条件として、加藤内閣に圧力をかけて治安維持法を成立させることを認めさせた。この法律によって、検察は政友会を内部崩壊させ、「議会中心主義」を標榜する民政党を攻撃し、社会主義政党共産党を弾圧した。検察は政党政治を徹底的に破壊しようとしたのである。

戦前最大の悪法、治安維持法の生みの親も平沼だった。

 そして1934年、平沼は枢密院副議長として、「帝人事件」の捜査を陰で操った。中島久万吉商相、三土忠造鉄相ら政治家、大蔵官僚らを次々に逮捕し、斉藤実内閣が総辞職した。しかし、この事件は実に逮捕者約110人を出しながら、公判では最終的に、全員が無罪となった。帝人事件」は空前のでっち上げ事件と言われる。

これが現在話題になっている(というか私その他が話題にしようとしている)「帝人事件」だ。

平沼はA級戦犯容疑で逮捕され、終身禁固刑を受け、1952年に病気で仮釈放されたが、その直後に死去した。だが、検察の政治への攻撃は、戦後も続いた。

検察は戦後民主主義を潰した

 第二次世界大戦後、1947年4月の総選挙では社会党が第一党に躍進し、民主党と連立で片山哲内閣が発足した。保守と革新が交互で政権を担当する健全な議会制民主主義が日本に定着する可能性があった。しかし検察はこの政権を容赦なく攻撃した。

 当時、政党への政治献金は届出制となっていたが、社会党西尾末広書記長が50万円の献金を受けながら届けなかったとして起訴された。これは本来、形式犯として起訴に値しないもので、最終的に西尾は無罪となった。

 更に、昭和電工の社長が占領軍の民政局や政官界に接待や献金の攻勢をかけた「昭電事件」という贈収賄事件が起きた。大蔵省主計局長・福田赳夫を筆頭に官僚13人、西尾を筆頭に政治家15人が逮捕起訴され、民間人を入れると計64人が裁判にかけられたという大事件となった。しかし、この事件も最終的に被告のほとんどが無罪となった。

 西尾は議会制民主主義を志向する現実主義者であったが、この2つの事件で社会党内での発言力を失った。逆に、マルクス・レーニン主義を基づいて社会主義の衛星国を目指し、米英で発達した議会制民主主義を破壊の対象と考える左派が社会党内で実権を握った。そして、社会党政権担当能力を持つ政党に成長する機会は断たれてしまった。

検察は常に「右」側から攻撃を仕掛けるもののようである。

なお、この上久保誠人氏の記事にはなぜか紹介されていないが、戦後政治史で検察の捜査が政権政党を揺るがせた最たる事件は、1954年の「造船疑獄」だった。

造船疑獄 - Wikipedia

東京地方検察庁特別捜査部による海運、造船業界幹部の逮捕から始まった捜査は政界・官僚におよび、有田二郎ら国会議員4名の逮捕などを経てさらに発展する気配をみせた。

同年4月20日検察庁は当時与党自由党幹事長であった佐藤栄作収賄容疑により逮捕する方針を決定した。

しかし、翌4月21日、犬養健法務大臣検察庁法第14条による指揮権を発動し、佐藤藤佐検事総長に逮捕中止と任意捜査を指示した。この指揮権発動は佐藤栄作の突き上げにより、内閣総理大臣吉田茂の意向を受けたものである。佐藤栄作はなかなか指揮権発動を行わない犬養を罷免にして、新法相に指揮権発動させるよう吉田に要求したが*1、結局犬養が指揮権発動を行い、その翌日辞任した。4月30日には参議院本会議で指揮権発動に関する内閣警告決議が可決された。衆議院は9月6日に証人喚問をおこない、佐藤検事総長は「指揮権発動で捜査に支障が出た」と証言。その後、衆議院は吉田を証人喚問議決をするも、吉田は病気を理由に拒否。その後、衆議院は拒否事由が不十分として議院証言法違反で吉田を告発するも、不起訴処分となった。

逮捕者は71名にのぼり、起訴された主要な被告のうち7名が無罪、14名が執行猶予付きの有罪判決を受けた。佐藤栄作は後に政治資金規正法違反で在宅起訴されたが、国連加盟恩赦で免訴となった。

逮捕こそ免れたものの、後の総理大臣の佐藤に逮捕状が出された事で、敗戦後の日本政治史の一大汚点と考えるものもいるが、また、吉田内閣を打倒し鳩山一郎岸信介らのいわゆる逆コース政治家に再登場の道を開くために仕組まれた帝人事件同様の検察ファッショの例に過ぎないと考えることもできる。
そもそも、起訴する権限を独占している検察官を選挙による民主主義を基盤とする内閣の一員である法務大臣がチェックする仕組みだった指揮権が佐藤など一部の政治家を救うための手段に利用されてしまったため、制度の政治的正当性が完全に失われてしまい、日本の民主主義にとって手痛い失敗になったとする意見がある。このことが、現在の、政治が検察に関心を持つことさえもタブー視する状況につながったといわれている*2

このWikipediaの記述では、鳩山一郎岸信介が「逆コース」として同列に扱われているが、鳩山一郎は1942年の翼賛選挙で非推薦で当選した自由主義者として知られていた。それが公職追放に追い込まれたのは、1945年の朝日新聞アメリカの原爆投下を「戦争犯罪」だとして批判する文章を寄稿したからであって、朝日新聞はこの記事によってGHQに2日間の発行停止を食った上、鳩山一郎GHQ吉田茂の共謀によって公職追放され、なかなか追放が解除されなかったと、これは朝日新聞星浩がテレビ(サンプロ)で喋っていたことだ。吉田とGHQの陰謀があったかどうかはともかく、鳩山一郎岸信介はおろか、吉田茂よりもリベラルだったという評価は現在固まっている。吉田茂は本心では保守反動だったが、アメリカと渡り合うために軍備よりも経済を重視する政策をとった。一方、戦時中には「鬼畜米英」と戦った東条内閣の大臣だった岸信介は、戦後一転してCIAから資金援助を受けて、親米・再軍備強化の政策をとった。

もっとも、造船疑獄においては必ずしも攻める鳩山が善玉で、守る吉田が悪玉だったわけではない。指揮権発動で逮捕を免れた佐藤栄作の受け取った金は、なんと鳩山から出ていたとの説もあるのだ。政治の世界に善玉も悪玉もない。狐と狸の化かし合いである。そして、結果を出した者が評価されるのである。

同様に、政治家が悪玉で検察が善玉などという図式は全く成り立たない。それどころか、戦前には平沼騏一郎をトップに戴いた時期のある検察が、平沼が投獄され、世を去った戦後になっても政党政治に挑み続けたこと、しかも決まって政党を「右」側から攻撃した歴史を、右派も左派もよく認識する必要がある。造船疑獄で吉田茂の長期政権が終わった1954年に岸信介が台頭した。その2年前に公職追放を解除されたばかりの岸が、1954年11月には新たに結成された民主党の幹事長に就任したのである。そして、鳩山一郎石橋湛山内閣を経て、1957年には総理大臣の座を手にした。造船疑獄では鳩山一郎も得をしたが、1934年の帝人事件では被害に遭っている。しかし、岸信介は造船疑獄で大いに得をしたほか、検察の捜査で損をしたことなど一度もない。そして、1976年のロッキード事件では、岸が大いに嫌っていた田中角栄が逮捕された。

毎度書くように、田中角栄逮捕がアメリカの陰謀だという説を私はとらないけれど、岸信介が検察にやられにくい体質を持っていたとはいえると思うのである。そして、戦前にも極右として有名だった平沼騏一郎が、検事総長にまで昇り詰めた検察官僚だった事実は、検察という組織の性格を物語っていると私は考えている。むしろ、政権政党と検察の軋轢が少なかった自民党政権時代後半の方が例外で、それこそこの時期には自民党が官僚とべったりだったことを反映しているのではないか。

そういえば、平沼赳夫は検察官僚の養子、城内実は警察官僚の実子である。平沼・城内コンビは、検察・警察コンビともいえるかもしれない。

*1:佐藤栄作佐藤栄作日記』第1巻、伊藤隆朝日新聞出版(原著1998年11月)

*2:中西輝政「子供の政治が国を滅ぼす」、『文藝春秋』第87巻第6号、文藝春秋、2009年5月、p.118