kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

帝人事件に関するメモ

「西園寺公望(下)」 / クリック 20世紀 より。

帝人事件


引用斎藤内閣退陣の直接の引き金となったのは帝人事件であるが、それにはこの事件をでっちあげたといわれる検察官僚の親玉平沼騏一郎(枢府副議長)の陰謀にふれなければならない。
この年五月三日、枢密院議長倉富勇三郎が辞職した。これまでは代々副議長が昇任していたので、副議長の平沼は大いに期待していたが、西園寺は天皇が右傾化を案じておられることから 平沼を忌避して、前宮相の一木喜徳郎を推した。 平沼は薩閥系の右翼と関係があり、牧野も平沼寄りであったが、このとき西園寺はリベラリストの本質を発揮して平沼をボイコットし、憲法に明るいという理由で一木を推した。結局、一木が枢相に任じられ、平沼は副議長にとどまった。右翼による独裁の野望を挫かれた平沼はその報復として斎藤内閣の打倒を企み、自分の子分である検事局の塩野季彦(国本社理事、林内閣、第一次近衛内閣、平沼内閣の法相)らに働きかけた。
九年一月、武藤山治が社長をしている時事新報が「番町会を暴く」という記事によって斎藤内閣のバックである財界グループの不正を暴露し始めた。その一つが帝人問題である。帝国人絹会社は、鈴木商店系の会社で、業績が向上しつつあった。当時、この会社の株式二十二万株が台湾銀行の担保に入っていたのを、鈴木の大番頭金子直吉がこの買い戻しを計り、鳩山一郎、黒田英雄大蔵次官らを動かし、そのあっせんを番町会の永野譲、正力松太郎らに頼んだ。この為十一万余株の払い下げが実現したが、間もなく増資決定の為、同株は一株二、三十円の値上がりを見せた。
これが贈収賄の容疑を招いたとして、高木帝人社長、島田台銀頭取、永野、そして黒田次官、銀行局長大久保偵次らが検事局に召還され起訴された。この為、新聞は大蔵省と斎藤内閣を攻撃し、内閣は七月三日ついに総辞職した。しかし、十二年十月結審した帝人事件裁判の結果は全員無罪であった。現在ではこの事件は枢府就任を阻止された平沼の怨念を示す、でっちあげのデッドボールであったということが明確になっている。

豊田穣西園寺公望(下)」  P.261)

最後の「デッドボール」は、かつてプロ野球マニアだった私に言わせれば、「ビーンボール」と表記すべきところだと思う。プロ野球ファンならよくご存じのように、打者の頭部にデッドボールをぶつけた投手は、それだけで退場処分を受ける。これは、1990年代のヤクルト対巨人戦において、野村克也長嶋茂雄という両軍監督の遺恨が影響したためか、両軍によって激しいデッドボール合戦が展開されていた事態に歯止めをかけるために設けられた制度である。いや、建前はもっと高尚だったのかもしれないが、実態はそうだった。特に、大手マスコミの報じない二軍戦では、巨人とヤクルトは常軌を逸したすさまじいデッドボール合戦を繰り広げられていた。当時の偏向マスコミは、野村克也を一方的に悪者にして長嶋茂雄を擁護していたが、これは当時野村びいきだった私にとって癪の種だった。長嶋茂雄は、「目には目を」と称して、平然と自軍の投手に、相手打者に対して故意死球を投じることを示唆したのである。一方、野村克也はそこまで露骨な指示を出したことはなかった。もちろん野村も長嶋と同罪ではあったのだが、少なくとも野村が長嶋と比較して一方的に悪者扱いされる理由はなかった。だが、当時の偏向マスコミは一方的に長嶋をえこひいきしたのである。私はこれを許せなかった。

ビーンボールは、いついかなる場合にだって許されてはならないのである。